【第6回】モーレツさで不遇を跳ね除けろ! 不遇に負けず龍馬の刀・フランス留学・日本一の資産を手にした前田正名【鹿児島県】

思わずドヤりたくなる! 歴史の小噺/ 板谷 敏彦

47都道府県、「この県といえばこれ!」というとっておきの歴史の小噺をご紹介する連載です。作者は、証券会社出身の作家・板谷敏彦さん。大の旅行好きで、世界中の主な証券取引所、また日本のほとんどすべての地銀を訪問したこともあるそうです! 一緒に旅している気分を味わってみませんか?

第6回は鹿児島県。江戸時代、薩摩藩は幕府の掟を破り、イギリスに留学生を派遣していました。その選考に惜しくも落ちたものの、日本一の資産家になった前田正名(まえだ・まさな)についてご紹介します。
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江戸時代、薩摩は一度入国すると帰れなかった

鹿児島への進入路、鹿児島空港ではなく宮崎空港に降りて鉄道を使う。宮崎空港にはJR九州が乗り入れており、2つ先の南宮崎駅で日豊本線鹿児島行きの「特急きりしま号」と上手く接続しているのでとても使いやすい。

列車は宮崎を出るとすぐに山間部へと分け入り、最初に出る開けた盆地が都城(みやこのじょう)。まだ宮崎県だがここは薩摩藩の有力な都市だった。列車は都城を出ると再び山間部に入る。

桜島がある錦江湾は火山の噴火口跡の窪みである。特に桜島の北側は、姶良(あいら)カルデラと呼ばれる約3万年前の大爆発の跡で、この時の火山灰は関東地方にも10㎝ほど降り積もったほどの規模だった。

都城を出た列車がカルデラを囲む外輪山を抜けると、車窓には一気に錦江湾とそこに浮かぶ桜島の景色が拡がる。

「ああ、薩摩にやってきたぞ」となるのだ。従って座席は列車の進行方向左側にすべきなのだが、外輪山を越えた直後は右手にほんのわずかに桜島が見えるから、カルデラ侵入時は右側がおすすめだ。細かいけれど。

「薩摩飛脚」という言葉をご存じだろうか? 薩摩藩は江戸時代、情報の漏洩を恐れて入国した他国の者、特に幕府の間諜(スパイ)の出国を許さなかった。そのため行ったきり帰らないことの例えに使われるようになった言葉だ。険しい自然と関所によって陸続きの国境は固めたが、地図を見てのとおり海が世界に開いていた。

薩摩藩は加賀百万石に次ぐ大藩だった

※この地図はスーパー地形アプリを使用して作成しています。

「英国から学ばねば!」掟を破り、留学生を派遣

1862年、薩摩藩は神奈川の生麦で大名行列の前を横切った英国人を殺傷する生麦事件を起こした。翌年、英国艦隊は賠償を求めて薩摩湾にやってくるや、やすやすと錦江湾に侵入。艦砲射撃で鹿児島城下を焼け野原にした。薩英戦争である。

「攘夷! 攘夷!」とがなり立てていた者たちも英国海軍の圧倒的破壊力の前に沈黙する。一方で薩摩も開明的な前藩主・島津斉彬(なりあきら)のおかげで近代兵器を装備していたので、英国艦隊の損害も大きかった。英国も「薩摩藩は江戸幕府とは少し違うな」と評価し、両国は一気に近づいた。

攘夷を捨てると行動は早かった。英国から学ばねばならない。学ぶのであれば先ずは見て来いと、まだまだ海外渡航ご禁制の世の中で、薩摩藩は秘密裏に英国へ掟破りの留学生を送り込むことになった。

薩英戦争で英国の捕虜になった五代友厚が命を賭して企画書を書き、藩首脳部は採用した。引率4名を含む19名。これが最初の薩摩藩遣英使節団である。

迎え入れた英国人は、薩摩藩遣英使節団の学生達を薩摩スチューデントと呼んだ。

出発は1865年4月、この2年後には戊辰戦争、明治維新があり、その10年後には薩摩を二分する西南戦争も発生する。こうした激動の時代にこれだけ人数が揃えば成功した者も失敗した者も出てくる。

森有礼(もり・ありのり)など政府高官として成功した者もあれば(若くして暗殺されはしたが)、五代友厚のように実業で成功した者、寺島宗則のように外交官として活躍した者、戊辰戦争で戦死した者、海外で客死した者、最後は雲水(諸国を修行して歩く僧)になった者など。出発当時13歳と一番若かった長澤鼎は、英国から米国へと渡り醸造学を学んでカリフォルニアのワイン王とまで呼ばれるようになっている。

幕末、薩摩に産まれた様々な人生が、一度薩摩スチューデントという一握の束にまとめられ、そしてまたバラバラに拡がっていく。攘夷だ、西洋だ、日本国だと沸騰する薩摩。この時期の薩摩ほど、環境が個人に及ぼす影響の大きさを感じさせるものはない。薩摩スチューデントはその象徴である。

門田明『若き薩摩の群像 サツマ・スチューデントの生涯』(高城書房)

留学費は自分で稼ぐまで! 英和辞書を出版

さて、ここに家格が低すぎて薩摩スチューデントの選考に落ちた薩摩隼人がいる。前田正名である。

前田は9歳から蘭学を学び、とてつもなく頭脳明晰だった。家格の低さから何度も不遇な目にあってきたが、この落選はひどく悔しかったに違いない。

落選後は長崎に出て勉強した前田は、1866年のユニオン号をめぐる取引で薩摩、長州、坂本龍馬が率いる亀山社中の三者が揉めに揉めた時、長州藩の誤解を解くための使者として命がけで長崎から長州へと向かった。この時前田はまだ16歳で身長150センチと当時でも小柄。長い刀を引きずるように歩くのを見た龍馬は、あれではイザというときに刀を抜けないと思い、

「おんしの刀は長すぎる。わしのと取り替えちゃる」

と言うと、自分の刀を差しだして取り替えてやった。

命がけの経験をして、前田は考えた。藩が西洋へ行かせてくれないのであれば、自分で稼いで行くまでだ。

1868年、前田は『和訳英辞書』(後に『薩摩辞書』という通称でベストセラーになる)を出版し資金を作った。不足分は、薩摩藩首脳の大久保利通に直接援助を請い、フランス留学に旅立った。

ところが時は、普仏戦争(1870~1871年)の最中。前田は混乱するパリの様子を見て、日本は文明で今は負けているがいつかは西洋に追いつけると確信を持った。英国に留学した連中が鉱工業を学ぶ中、前田は農業を学んだ。

1877年、前田がパリ万博に日本も参加すべきと予算を貰いに帰国すると、日本はちょうど西南戦争で、尊敬する薩摩の先輩たちは二手に分かれて争っていた。

「こんな時に万博なんぞの話で恐縮です」

と大久保利通に予算を請うと、大久保は「こんな時だからこそ、君は君の役割を全うせよ」と予算とともに愛用の脇差しを与えた。これで前田の刀は坂本龍馬、脇差しは大久保利通ご愛用の品となった。前田の差料(刀)は何とも贅沢なのだ。

追い出されてもめげない。モーレツに農業振興

前田は帰国すると農商務省で働いた。農業を国家の基幹とし、地方を中心に日本という国を興す。しかし、この考えは富国強兵、中央集権の明治政府には馴染まなかった。前田は農商務省次官の時、盛岡出身の官僚で同じフランス語を学んだ原敬に追い出されてしまうのだった。

しかしそんなことでめげる人物ではない。民に下っても初志貫徹、全国を行脚し近代農業振興を生涯の仕事とした。前田の恩恵を受けた地方は数多い。また首相・大蔵大臣として名高い高橋是清がもっとも尊敬した男である。「全国を実地調査し、そのデータをもとに施策を練る」という当時としては先進的な合理性や、それを可能にした彼の滅私奉公なモーレツさ、「しつこさ」に感動したのだ。

皇室も彼を認めていた。前田は殖産興業だけではなく自然保護に尽力したことを皇室は知っていたため、森林などの膨大な御料地を与えたのである。この結果、前田は晩年には全国一の土地持ちになった。天下の大金持ち・パナソニック創業者の松下幸之助に抜かれるまで、死亡にともなう遺産相続納税額は日本一だった。

前田は私利私欲を捨て、交通機関が未発達のなか、何度も全国を行脚して、農業とそれに関連する製糸業の復興に努めた。当時、製糸業つまり絹は日本の最も重要な輸出品として外貨を稼ぎ続けた。そうした意味から日本という国の勃興に前田の貢献ははかりしれない。

板谷さんから一言
一方で、若き日の前田は直情径行、前田が指揮する職場環境はいつも超ブラックだった。偉い人だけど、現代では通用しないかもしれませんね。

若者が沸き立つ薩摩藩

前田はなぜここまでの人材になれたのか。

前田だけではない。薩摩藩の維新時の人物は、島津斉彬、西郷隆盛、大久保利通、西郷従道、大山巌、松方正義、黒田清隆などなど数え上げたらキリが無い。

それは薩摩の恵まれた環境のためだろう。親戚、ご近所、身近な人間が京や江戸に出て活躍し、今度は海外に出て勉強して、立派になって戻ってくる。それを見た若者たちは、我も我もと沸き立った。薩摩から人材が輩出したのはこのためだ。

賊軍とされた東北地方から、逆境をバネに多くの優秀な人材が輩出された一方で、薩摩藩から、環境と人に恵まれたからこそ、歴史に名を遺す人材が多数輩出されたというのは非常に面白い。

祖田修『前田正名』(吉川弘文館)

鹿児島県のおすすめの観光スポット&グルメ

鹿児島県は見るべき場所が多すぎるほど観光資源が豊富だ。鹿児島市内でも仙巌園・尚古集成館、黎明館、維新ふるさと館、鹿児島県立博物館、桜島フェリー、市域を離れれば、霧島神社、知覧特攻平和会館、ユニークな所では指宿市営唐船峡そうめん流しなどなど。

今回はその中で、県の西、遠洋マグロ漁船登録数日本一のいちき串木野市を紹介する。旅行が気兼ねなくできるようになったらぜひ訪れてほしい。

ここには「薩摩藩英国留学生記念館」がある、薩摩スチューデント達は出発前の2ヵ月間を、この地に滞在して勉強しながら秘密裏に船を待った。展示物も充実しているし親切な学芸員のおじさんがいるので何でも質問しよう。

若き日の森有礼や寺島宗則もここで船を待った

串木野のもうひとつの目玉は、かつて薩摩藩の栄華を支えた串木野金山。今では芋焼酎で有名な濱田酒造が「金山蔵」として金山の博物館機能を維持しつつ、年中気温が一定という坑道の特徴を利用して、焼酎の蒸留と熟成をしている。かなり大規模なものだ。

かつての金山の坑道。焼酎の熟成に最適

ここはトロッコに乗って坑内に入るが、焼酎を買って熟成用にここにボトルを預けている人は、トロッコ代が無料になる。実は筆者も自分の芋焼酎をここに託して熟成を待っている。

美味しく なーれ

串木野はかつての遠洋マグロ漁船の乗組員が帰国するたびにお金を落とした街。いちき串木野市には「本格焼酎による乾杯を推進する条例」があって、この街では最初の乾杯はビールではなく芋焼酎でしなければならない。駅前のすし屋「大助」などが新鮮な魚介を提供し、ワイン樽で寝かせた芋焼酎など豊富な種類の焼酎のストックを持っている。

芋焼酎と合う

2次会はスナック「ジュテーム」「アローズ」などが安心して飲める。遠洋漁業帰りの乗組員の風情を味わうべく港町の夜を楽しむのも一興だ。