「未完成でもいいから出しちゃおう」 異例の経営判断はなぜできたのか

コロナ時代のニューノーマルをつくれ!/ 中田 卓也

ヤマハといえば、楽器と音楽教室。Stay Homeで店舗や教室が閉まり、苦境を強いられたのでは? という憶測は、取材で吹き飛んだ。中田卓也社長の言葉から浮かび上がるのは、困っている人たちと音楽でつながり、課題を解決しようと動いた社員たちの姿だ。世界最大の総合楽器メーカーは、コロナ禍にどう向き合ったのだろうか。

現場から次々に声が上がった

――コロナ禍に負けず、緊急事態宣言があった4月、5月にたくさんの新しいサービスをリリースしています。なぜ、これだけ速いスピードで動けたのでしょう。

今回はビジネスというより、噴出する社会課題への対応を優先しました。新型コロナウイルスの流行で活動が制限され、ミュージシャンや、ふだんから音楽を楽しんでいる人たち、学んでいる人たちがすごく困っている。そういう課題に対して、私は「完全じゃなくていいから、いろんなサービスを出しちゃおうよ」と言いました。

こんな状況なので、お金はいただけません。それなら、実証実験のような形で使っていただこうと、未完成なサービスのリリースにもゴーサインを出したのです。平時ではあり得ない判断でした。

リモートでの取材に答える中田社長

――中田社長は就任以来、縦割りの組織をやめて個性ある開発を推奨するなど、社内の改革を進めてきました。その成果が、緊急時に活きたのではないでしょうか。

たしかに、従来の縦割りの組織からは、現在ヒットしている製品・サービスは生まれにくかったかもしれません。

コロナ禍で売れている製品に、テレワーク用のスピーカーフォンがあります。また、リモートで合奏ができる「シンクルーム」、離れた会場に声援や拍手を送れる「リモートチアラー」などのサービスも、たくさんの方に使っていただいています。

これらは単独の技術というより、「組み合わせの妙」が決め手になっている。それができたのは、楽器ごとの部署を廃して全社一体の開発部隊をつくったり、音とインターネットの専門家を混成した音響事業部をつくったりした結果といえるでしょう。

離れた相手とアプリを通じて合奏できる「シンクルーム」

また、会社としてどの技術を大事にして、どう使うのか。それを方向づけることも大切です。

ヤマハの強みをひとことで言うなら、「音の技術」です。当社は長い間、「音楽」に特化してきましたが、「音」ってもっと幅広い。当社が蓄積してきた技術を使える場面は音楽以外にもたくさんある。そういう「音の技術」をきちんと磨いて突き抜けようよ、と発破をかけてきたことが、今回のような緊急事態にも活きたのかなと思います。

そのうえで強調しておきたいのは、いくら社長ががんばっても、1人では何もできないということです。ヤマハに入ってくる人は音楽が大好きで、プライベートでも音楽を楽しんでいる人が多い。そういう社員の「こんなものがあったらいいね」という発想が、新しいサービスを生んできました。もし私に功績があるとしたら、そういう動きを「いいじゃない」「もっとやれば」と、後押ししたことじゃないでしょうか。

今回、社員を後押ししたときの反応、ですか? それはすごかったですよ。いろんな部署から、すぐに「これが使えるんじゃないか」「困っているなら、これができるよね」と、声が上がってきました。中には、こっちがうなるような発想もありましたね。いやもう、とてもうれしかったし、心強かった。

ぼんやりした予測が現実に

――今回目立つのは、主にインターネットを使ったリモートのサービスです。楽器と音楽教室のイメージが強い御社に、インターネットの技術が数多くあることが、正直意外でした。

実は、当社がインターネット事業を始めたのは結構古いんです。

たとえば、当社には「ディスクラビア」という自動演奏機能付きのピアノがあります。このピアノには、自動演奏機能に加え、遠くにあるピアノの演奏データをインターネットで送受信し、目の前のピアノでほぼ同時に再現する機能があります。このピアノの開発が始まったのは、いまから約40年前。ヤマハが、当時話題になっていたコンピューターの事業を立ち上げた時期です。

ちょうど入社したばかりの私が配属されたのが、その事業でした。音楽教室で演奏がうまいお子さんを見つけては録音に協力してもらい、「わたしの演奏とちがうよ!」と厳しいことを言われながら(笑)、開発に携わったのを覚えています。

それからコツコツと精度を上げ、ほぼ完成したところに、今回のコロナ騒動が起きた。そして世界的なStay Homeのさなか、ドイツの名門・フライブルク音楽大学から、ディスクラビアを使って入試をしたいと相談がありました。日本と中国にいる受験生が、ドイツでの実技試験を受けられなくて困っているというのです。

そこで当社のスタッフが協力し、日本と中国、ドイツのディスクラビアをインターネットでつなぎ、国際間のリモート入試を行うという世界初の試みが成功しました。おかげでコロナ禍でもチャンスを失わずに済んだと、大学、受験生の両方から大変感謝されました。

フライブルク音楽大学のリモート入試の様子

こうした技術の蓄積に加えて、近年の戦略も功を奏しました。2019年から始まった中期経営計画「Make Waves 1.0」で、インターネットと音を組み合わせた製品・サービスの開発を重点的に進めていたのです。

ここでわれわれが思い描いたのは、デジタル化が進んで生活がますます便利になった結果、人々が精神的な満足を求める社会です。多様な価値観をもつ人々に対して、企業がインターネットで直接つながる世の中がやってくる。いままでの音楽は、人が1ヵ所に集まって楽しむものと思われていました。しかしこれからは、時空を超えて音楽を楽しめる時代がくるだろう。そういう発想から生まれたのが、「シンクルーム」や「リモートチアラー」といったサービスでした。

ですから、今回のために新しく何かをやったわけではありません。「こんなふうになるかな」とざっくり予想していた未来が、コロナで一気に現実になった。準備していたサービスがたまたまニーズに合致しただけで、ソーシャルディスタンスが必要な状況になるとは、想像もしていませんでした。

「なんとなく」の本質を問う

――リリースしたサービスの中から、今後、事業化されるものも出てくるのではないでしょうか。たとえば「SoundUD音響通信モジュール」(以下、SoundUD)は、今後もソーシャルディスタンスが求められる社会で普及しそうな技術です。

ええ、「SoundUD」には期待しています。これは、音に特殊な信号(トリガー音)を乗せ、スマホなどの機器に情報を伝える技術です。音を媒介にするので、非接触で情報の受け渡しができるところが、ソーシャルディスタンスのニーズにかなっています。

実は今回、「SoundUD」をタクシー会社の決済システムに採用していただいたんですが、この理由が面白い。同じように非接触で情報をやり取りできる技術に、ブルートゥースやWi-Fiのような無線通信、図形を読み込むQRコードなどがあります。しかしタクシーの場合、無線機材の設置は避けたい。QRコードだと車体が揺れたときに使いにくい。「SoundUD」は、それらの条件をクリアできるというんですね。

「SoundUD」の使用イメージ

この技術は5年ほど前から開発し、コンソーシアム(共同事業体)を立ち上げて普及に努めてきました。それが今回、あっという間に新しい用途が見つかりました。これから「新しい生活様式」が続く中で、さらに用途が広がり、普及する可能性は高いですね。

――御社の場合、コロナ禍で新しく何かが生まれたというより、やってきた戦略のスピードが加速したということなんですね。

おっしゃる通りで、当社の長期戦略には、まったく変更はありません。ゴールは同じで、スピードが加速した。

今回の対応を通して、「音×インターネット」に対する人々のニーズが顕在化したと思っています。また、リモートワークや気候変動への対応など、社会課題も浮き彫りになりました。そうしたニーズや課題に対して、もっと新しい価値を生んでいきたいですね。

ありがたいと思ったのは、音楽が持っている力を再認識できたことです。

実は、巣ごもり需要で一部の楽器は売上が伸びています。ピアノのような大型商品は、お店で実物を弾いて購入する方が多いので売れませんが、電子ピアノやギターはネットですごい売れ行きで、生産が間に合わないほどです。大型の商品が売れないので全体の売り上げは落ちていますが、こんな状況で、少しでもお客様にご提供できる商品があるのはとてもありがたい。

つまり、Stay Homeで必要なのは、食料だけじゃなかった。人間らしく生きようとするときに、音楽がいかに人々を癒し、勇気を与えるか。そのことをあらためて教えていただきました。

――コロナ禍中における一連の対応を通して、個人的にどのような「気づき」がありましたか。

いちばん大きいのは、「なんとなく続けてきたこと」は、やっぱり「なんとなく」だったんだなあ、と。

典型が、テレワークですよね。「オフィスで働く是非」について、われわれは本質に立ち返って議論したことがありませんでした。音楽教室もそうです。教室に来ていただいて、グループ・レッスンをするものだと思っていました。でもテレワークもオンライン・レッスンも、やってみたら問題なくできています。

私は社長に就任してから、従来の形にとらわれず、事業を変革してきたつもりでした。しかし、本当の意味での変革ができていたか。まだまだ9割は惰性で、既存の事業を繰り返していただけではないか。そう気づいたいま、あらゆる仕事をもう一度見直そうと考えています。

あとは、世の中ますますハイブリッドになると思いますね。働き方も人と会うのも、エンターテインメントも、リアルとバーチャルの組み合わせになっていくんじゃないでしょうか。

先日、サザンオールスターズのみなさんが無観客ライブのネット配信を成功させました。平時に戻り、会場にお客さんが入れるようになっても、ネット配信の流れは止まらないでしょう。これからはリアルとバーチャルの「どちらか」ではなく、「どちらも」が当たり前になり、その組み合わせを工夫する時代になる。その分だけ、リアルで現場に行ったり、人と会ったりする際の感覚が研ぎ澄まされるようになるでしょう。

社会が大きな変化を迫られるとき、人は「本質」に立ち返らざるを得ません。今回はその中で、われわれが蓄積してきた技術が、多少なりとも世の中のお役に立つことがわかりました。この経験をきちんと活かし、事業を発展させていきたいですね。

ヤマハ