【第7回】殿様超え!? 「本間様は無理でもせめて殿様になりたい」と謳われた酒田商人【山形県】

思わずドヤりたくなる! 歴史の小噺/ 板谷 敏彦

47都道府県、「この県といえばこれ!」というとっておきの歴史の小噺をご紹介する連載です。作者は、証券会社出身の作家・板谷敏彦さん。大の旅行好きで、世界中の主な証券取引所、また日本のほとんどすべての地銀を訪問したこともあるそうです!

第7回は山形県。その中でも上方の文化の影響を色濃く受けた酒田についてご紹介します。テクニカル分析が好きな投資家なら一度は聞いたことのある「酒田五法」についての意外な事実とは……?
【第6回】モーレツさで不遇を跳ね除けろ! 不遇に負けず龍馬の刀・フランス留学・日本一の資産を手にした前田正名【鹿児島県】を読む

江戸が近いのになぜ? 上方の影響が濃い酒田

山形県は、西の出羽山地と東の奥羽山脈の間を流れる最上川に沿って、それぞれ個性的な都市が発達した。

本来であれば山一つ越えれば他の国なのだが、山形県は歴史的に最上川舟運が各地域の経済、文化をつないできた。

上流から米沢市がある置賜(おきたま)地域、山形市の村山地域、新庄市の最上地域、そして川が出羽山地を抜けて日本海へと注ぐ酒田市や鶴岡市がある庄内地域の4つに分けられる。

今回は山形県の中でも、江戸時代、北の商都として繁栄した酒田に注目してみたい。何故なら酒田は距離的に近い江戸ではなく、京・大坂を中心とする上方文化の影響を色濃く受けているからだ。ちょっと意外でしょ。

酒田は京より江戸が近いはず……?

※この地図はスーパー地形アプリを使用して作成しています。

上方の雛人形が最上川沿いに多い理由

江戸から明治時代にかけて、最上川河口に位置する酒田は北前船(きたまえぶね)を通じて京・大坂の上方と繋がっていた。そのために、酒田も含めた最上川では「おきたま雛回廊」など今でも雛祭りが盛んで、京都で作られた雛人形が資産家の家に多く残されている。

例えば米沢の特産品である紅花は京都で売られ、その代金の一部で京都の工芸品が買われて、酒田経由で最上川を遡り米沢へと届けられた。その後当地でも人形は作られている。

酒田で見た三人官女

大坂を「天下の台所」たらしめた北前船

ここで日本史の復習をしておこう。

北前船とは、江戸時代から明治にかけて北海道、東北、北陸地方から日本海、瀬戸内海を経由して大坂までを結ぶ航路で活躍した和式の帆船のことである。

※この地図はスーパー地形アプリを使用して作成しています。

各藩の収入は年貢、つまり米が基本。何をするにも金がいる。経済の貨幣化がすすんだ江戸時代、大量の米を換金するためには大消費地の江戸か大坂の米市場に持ち込む必要があった。

例えば酒田からだと津軽海峡を抜けて東廻り航路で江戸に行くのが距離的に近いのだが、この航路では現代でも難所といわれる房総沖を通らねばならず、リスクを考慮すると大坂へ運ぶほうが確実だった。

また、米沢藩から板谷峠を越えて福島の阿武隈川に出るというルートもあるにはあった。阿武隈川に出れば江戸まで近い。しかし、重たい廻米(かいまい:藩の年貢を市場に出すために運搬される米)の峠越えは困難だった。このため、最上川を下って酒田の湊から北前船で大坂へと運んだ。

地図を見ればわかるように、北前船によって東北日本海側、北陸、山陰の米が大坂へ集まった。中国、四国、九州も海運である。「天下の台所」と呼ばれて大坂の米市場が発達した理由がよくわかるだろう。

やがて蒸気船が登場して難所が克服され、鉄道が開通して東北や北陸から東京までのアクセスが容易になると物資は東京へ集中するようになった。交通手段の発達が物の流れを変え、市場形成に影響を及ぼした事例である。

酒田出身の相場師・本間宗久がローソク足の考案者!?

酒田には最上川舟運の荷物が集まる一方で、北前船によって北海道や大坂、瀬戸内海などの物産が出会う場所でもあった。もちろん米会所(市場)もあり米相場も立った。

ところで、酒田と言えば相場に欠かせない人物がいる。天井形成のパターン「三山」=「三尊天井」、大底の「山川」など有名な罫線(ローソク足)投資法「酒田五法」の考案者とされる相場師・本間宗久である。株式投資に興味がある読者ならば一度は見聞きしたことがあるはずだ。

林 輝太郎、森生 文乃「マンガ 相場の神様 本間宗久翁秘録―酒田罫線法の源流」(パンローリング)

本間宗久は酒田の豪商、初代・本間原光(もとみつ)の五男坊である。宗久の兄である2代目・本間光寿(こうじゅ)が跡継ぎの三男光丘(みつおか)を姫路に修行に出している間、宗久は本間家の運営を任された。

米相場や座頭連判貸し(貸し金業)などで家業を大きくしたとされるが、光丘が酒田に戻ってくると、相続で揉めることも無く、財産の一部を分けてもらうと飄然と酒田を発って大坂へと向かった。カネカネカネという人間ではない。

大坂、江戸と米相場で稼いだ宗久は、ある日酒田の米商人であった弟子の善兵衛に一冊の相場の極意書を渡した。これが『本間宗久相場三昧伝』だ。多くの宗久に関連する相場本の出所はすべてこの本である。

しかし、相場の世界では「テクニカル分析の始祖」のように思われている本間宗久だが、実は、明治中頃以前のチャートは未だ何も発見されていない。つまり、宗久の時代にローソク足はまだ無かったと考えられている。従って『本間宗久相場三昧伝』にもチャートの記述は何もない。

株式チャートができたのは19世紀の終わり頃と考えられており、宗久が編み出したとされるチャートは、明治以降に宗久の記述を参考にした他の人によって考案された投資手法なのである。

よって、本間宗久は一般には「酒田五法」(ローソク足投資法)の考案者とされているが、それは事実とは異なる。もちろん相場師として成功し、極意書『本間宗久相場三昧伝』を残したので「相場の神様」であることには違いないが。

相場の神様より殿様より人気! 「実業家・本間光丘」

若くして酒田を離れたからであろう、相場の神様にあやかりたいと宗久を訪ねて酒田に行ってもそこには何もない。社会事業で有名な実業家の3代目・本間光丘が現地では圧倒的存在である。

「本間様にはおよびもないが、せめてなりたや殿様に」

酒田では当時こんな歌が謳われたそうだ。

今も残る本間家関連の建築物には圧倒されるだろう。旧邸、別荘、庭園、書庫、美術館、神社等々、一商人の繁栄の跡として他の地域では決して見られない規模と格式である。

本間光丘の経営哲学は「金は金をうむ、徳は得をうむ」。

光丘が金を貸す時は、必ず借り手の立場に立って返済計画まで親身になって相談した。また飢饉の際にはお金や食べ物を配ったり、私財をはたいて防砂林を植えるなどした。

どうして江戸時代に酒田はかくも栄えたのか。学べることは多い。

山形県のおすすめ観光スポット&グルメ

東京方面から酒田へは3つのアプローチがある。①山形新幹線で終点の新庄まで行き、陸羽西線、羽越本線で最上川沿いに酒田まで出る。②上越新幹線で新潟まで出て、羽越本線特急いなほで酒田まで出る。

①②とも時間費用はほぼ同じ。①で最上川を見学するもよし。②で特急いなほで日本海を見るもよし。特急いなほの座席は進行方向左側がおすすめ。③成田空港からは庄内空港へ格安のLLCも出ている。

庄内藩のお城は鶴岡にあり、酒田は商人の町である。写真の山居倉庫、本間家関連の旧宅や美術館、北前船などが興味をひく。また酒田は映画『おくりびと』のロケ地、訪ねて見たい場所は色々とあるだろう。希代の写真家、酒田出身の土門拳記念館も見逃せない。

NHK連続テレビ小説「おしん」の舞台にもなった

また面白いところでは、西郷隆盛を祭った南州神社がある。幕末薩長の維新政府と戦った庄内藩は降伏後、西郷隆盛の温情を受けた。その遺徳をたたえ昭和51年に創建されたこの神社、よく見ると看板のスポンサーは鹿児島銀行であることがわかる。

「鹿児島銀行」の文字が

北前船を通じて、古くから豊かな文化に育まれた酒田には美味いものがたくさんある。

おすすめは寿司屋の「こい勢」。筆者が訪ねた時には、スキーで月山(がっさん)に長期滞在しているオーストラリア人の家族が、はるばる1時間半ほどタクシーを飛ばして寿司を食べにきていた。料理は高品質で価格はリーズナブル。

そして酒田に来たらバー「ケルン」を訪ねよう。ここにはバーテンダーなら世界中誰もが知っているカクテル「雪国」を考案した井山計一さん(1926年生まれ)が1955年の創業以来シェーカーを振り続けている。日本最高齢だと思う。筆者がお邪魔した時は佐賀県のバーテンダーがわざわざ雪国を飲みに酒田まできていた。

カクテル「雪国」

山形県はひとり当たりラーメン消費量が日本一といわれる。4つのどの地域でもそれぞれ美味しいラーメンがある。旅先では色々と食べたいものがあるから、朝ごはんをラーメンで済ませると後の融通が利く。魚市場近くの「麺屋酒田inみなと」は朝5時開店。醤油ラーメン1杯500円。写真は小盛の400円。これでも朝ご飯には充分な量だ。

消費量1位だけあってものすごくおいしい

酒田はコンパクトにまとまった綺麗な街である。新幹線の駅もないが、古くからの文化の香りがする。そこには田舎臭さは微塵もない。