【第9回】日本人が登山を楽しむようになったきっかけは宣教師だった!【長野県】

思わずドヤりたくなる! 歴史の小噺/ 板谷 敏彦

47都道府県、「この県といえばこれ!」というとっておきの歴史の小噺をご紹介する連載です。作者は、証券会社出身の作家・板谷敏彦さん。大の旅行好きで、世界中の主な証券取引所、また日本のほとんどすべての地銀を訪問したこともあるそうです!

第9回は長野県。山は信仰の対象で、日本で登山がスポーツ、そしてレジャーとなったのはつい最近のことでした。スポーツとしての登山を広めた宣教師についてご紹介します。
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県民ほぼ全員が歌える県歌

多くの人は自分の都道府県の歌などは知らないものだ。ところが長野県では当地で教育を受けたほぼ全員が長野県の県歌『信濃の国』を歌えるのだそうだ。

6番まであるその歌詞は、長野県の地勢風土をわかりやすく説明している。

例えば『信濃の国』の1番、

「信濃の国は十州に 境連ぬる国にして聳(そび)ゆる山はいや高く 流るる川はいや通し 松本伊那佐久善光寺 四つの平は肥沃(ひよく)の地 海こそなけれ物さわに 万(よろ)ず足らわぬ事ぞなき」

高い山に囲まれた長野県、歌詞では肥沃の地として4つの平をあげている。「平」とは他地域では盆地のことなのだが、何故か長野県だけは「平」という言葉を使う。松本平、伊那平、佐久平、善光寺平である。他にも真田幸村が育った上田城がある上田平などもあるが、大きいのはこの4つだ。

では昔から、例えば川中島の戦いがあった武田信玄や上杉謙信の時代から「善光寺平」と呼ばれていたのかというとそうでもなく、明治20年頃からこの呼び方が始まったのだそうだ。一方で「盆地」という言葉も地理学のテクニカル・ターム”basin”の訳語であって、昔からの日本語ではない。明治33年に披露された県歌「信濃の国」が「盆地」ではなく「平」を定着させたのかもしれない。

4つの平はそれぞれに個性があって魅力的だが、今回はその中のひとつ北アルプスを臨む「松本平」。そして歌詞中に「聳ゆる山はいや高く」とうたわれる北アルプスの登山口であり、また観光地でもある上高地を紹介したい。

「盆地」のことを長野では「平」という

※この地図はスーパー地形アプリを使用して作成しています。

陸軍より先に登頂したのは平安時代の僧

2009年公開の登山映画『劔岳 点の記』をご存じだろうか、剱岳は標高2999メートル、上高地からは少し北に位置するが北アルプスの山だ。明治40(1907)年、陸軍測量隊とアマチュアの山岳会が競争して、当時険しすぎて登攀(とうはん:登山で岩壁などによじ登ること)不可能だと考えられていた剱岳への初登頂を目指す話だ。

陸軍測量隊は数々の高山の山頂に、地図作成のための測量点を設置してきた”登山のプロ”としての意地、山岳会は日本に当時未だ黎明期だった”登山というスポーツを普及させたい”という願いから、両者は山頂への一番乗りを競ったのだ。

陸軍が苦労の末に先に頂上に到達すると、自分達は一番乗りではなかったことを悟る。そこにはなんと平安時代のものと思われる、修行僧が使う錫杖頭(しゃくじょうとう)と鉄剣が残されていた。大昔にすでに登った僧がいたのだ。

日本では昔から山は信仰の対象である。人が死ぬと魂は山の稜線(りょうせん)を伝って山頂から天に昇る。どの山にも山頂には神社や祠(ほこら)があるのはそのためだ。修験者(しゅげんじゃ)などが古くから高い山の頂上を極めていたのだ。

一方で、この映画に登場する山岳会。修験者には信仰、陸軍には測量という登山の目的があるが、山岳会は登山そのものが目的だった。この頃から次第に日本人も登山の魅力にとりつかれ、高等学校や大学には山岳部ができて、登山は大衆のスポーツやレジャーとして定着していく。そのきっかけを作ったのが明治時代に来日した英国人宣教師ウォルター・ウェストンだった。

上高地バスターミナルから仰ぐ日本の標高第3位の奥穂高岳

日本人に「スポーツとしての登山」を広めた宣教師

明治24(1891)年、登山が趣味の英国人宣教師ウォルター・ウェストンは初めて上高地を訪れた。当時日本では登山は猟師か樵夫(しょうふ:木こりのこと)、あるいは陸軍測量隊だけがするものだったが、欧米では既にスポーツとして流行していた。ウェストンは上高地に暮らしていた猟師の上條嘉門次(かみじょう かもんじ)をガイドに、槍ヶ岳や穂高岳など上高地を取り巻く高い山々に挑んだ。まだ地図が無い時代だった。

明治29(1896)年、ウェストンはこうした登山の経験を本にした。『日本アルプスー登山と探検』を出版し、清潔で親切な日本人、神々しい上高地の魅力を世界に向けて称賛した。またウェストンは日本国内に向けても「楽しみとしての登山」を伝え、日本山岳会の結成を助けた。ウェストンがいなければ剱岳で陸軍と競った山岳会もなかったはずだ。

ウェストンは未踏の日本の山を切り拓いたパイオニアである。また山を愛する者には親切に登山の手ほどきをした。また、当時は多くの外国人が後進国である日本の風俗風習を軽蔑したが、ウェストンは日本人に心ひかれ、日本の山々に心を奪われ、日本そのものを愛したのである。そのため頑固者のジョン・ブル(※イギリス人のこと)ではあったが、登山を志す日本の若者達に慕われたのだ。上高地には散策コースの中に彼のレリーフがあり、毎年6月には登山家達によってウェストン祭が催されている。

ウォルター・ウェストン著 岡村精一訳『日本アルプスー登山と探検』(平凡社)

『日本アルプス』では、当時まだ鉄道が通らない松本の街や、あるいは岐阜県の高山から峠を越えて上高地へと入って行く道程が、接触した人々や風景とともに細かく描かれている。現代の読者もこの本を通じて日本の原風景に接すると同時に、上高地の美しさに魅了されることだろう。ちなみにウェストンは原書の中で”Matsumoto basin”と呼ばずに”Matsumoto plain”と書いている。松本「平」なのだ。

総務省統計局のデータでは、団塊世代の高齢化とともに登山人口は減りつつある。それでもグランピングの流行や”山ガール”の登場など、若い人の間にも山の魅力に目覚める層は確実に増えている。日本には上高地がある。こんな美しい場所を知らないなんて、絶対に損していると思うのだ。

上高地のおすすめ観光スポット&グルメ

上高地には少なくとも一泊したほうが良い。満天の星空に、高い山の頂に差し込む朝日、朝靄(あさもや)に煙る池やせせらぎは絶対に都会では味わえない。そこかしこに宿る日本固有の八百万(やおよろず)の神を感じることができるだろう。

宿泊施設は高級リゾートホテルから山小屋のような施設までそれぞれ魅力があるのだが、今回はちょっと贅沢をして上高地帝国ホテルを提案したい。帝国ホテルグループの新人は、このホテルでホテルマン・ウーマンの基本を学ぶ。

上高地帝国ホテルのロビーの暖炉

ここには温泉はないが、上質なヨーロッパスタイルの山岳リゾートが楽しめる。上高地散策の後はシャワーを浴びて身なりを整える。レストランに向かうと、入り口ではホテルのホールスタッフが正装で並んで迎え入れてくれる。ハレの場とはこのことだ。そして帝国ホテルクオリティのディナーが味わえる。食後はテラスで星を見よう。ウェストンが何日もかけて苦労して、ようやくたどり着いた上高地で見た星空が今では簡単に手に入るのだ。

筆者は一時登山に凝っていた時期がある。冬は通行止めで閉ざされる上高地に徒歩(スノーシュー)で入った。凍てつく真っ白な景色の中にあたかも冬眠に入ったがごとく冬季営業休止中の帝国ホテルの赤い屋根が見えた。その時、もう少し大人になったらこんなホテルに泊まりたいなと思ったものだ。

伝統と風格を感じさせる玄関

また、ウェストンも上高地への拠点とした松本市、街中で美味しい山の湧き水が出るこの街は、ソバの銘店が多いので有名だ。だがそれだけではない、人口24万人の都市とは思えないほど洋食や中華、喫茶店などB級グルメにも美味しいものが多い。総じて美味しい街という印象なのだ。

蕎麦倶楽部 佐々木の蕎麦

老舗洋食屋おきな堂のボルガライス。チキンカツ+オムライス+ハヤシソースが一度に味わえる

また駅からの徒歩圏で、松本城や整備された古い商店街など見るべきところは多い。上高地への拠点として行きと帰りにランチで寄れば良いだろう。

松本市の老舗菓子店である開運堂では、ウェストンの名をつけたビスケットを販売している。これも美味しい。