47都道府県、「この県といえばこれ!」というとっておきの歴史の小噺をご紹介する連載です。作者は、証券会社出身の作家・板谷敏彦さん。大の旅行好きで、世界中の主な証券取引所、また日本のほとんどすべての地銀を訪問したこともあるそうです。
第12回は大阪府。米相場で栄えた大阪に、義侠心あふれる相場師がいました。大阪の金融業者を救ったその人物は、命を落としても公会堂を残しました。大阪商人として駆け抜けた相場師の生き様からは、投資に向かう際の戒めを感じられます。
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聖徳太子、秀吉が寺や城を築いた台地
昔から「浪華の八百八橋」と言われるほど、大阪には心斎橋、戎(えびす)橋など、たくさん橋の名のついた地名がある。これらは、今では大半が埋められてしまったが、以前は大阪の街に縦横無尽に拡がっていたお堀や運河に架けられたものだった。
もっと時代をさかのぼると、弥生時代ぐらいまで大阪平野の大部分は未だ海の底だった。これに淀川や大和川から運ばれる土砂が堆積し、近世以降の埋め立てもあって今の平野が形成されたのだ。
その昔、海に突き出していた半島が今の上町(うえまち)台地である。大阪にも台地があり、坂道がある。半島の先端は現在の大阪城で、豊臣秀吉が城を築く以前は石山本願寺だった。大阪平野を見渡せるため、砦を築くには絶好の要衝だったのだ。
聖徳太子の四天王寺も、仁徳天皇がかまどに登る炊飯の煙が少ないのを見て庶民の困窮を知ったという高津宮も、大阪の古い寺社はこの台地の上にある。
この上町台地の北端にぶつかって方向を変えるのが昔の淀川。鉄道が未だ無い頃、京と大阪を結ぶ船は三十石船(さんじっこくぶね)と呼ばれて、伏見から淀川を下り、天満橋のたもとの八軒家浜(はちけんやはま)船着き場に着いた。江戸では隅田川を大川と呼ぶが、大阪ではこの昔の淀川を大川と呼ぶ。
この淀川は頻繁に氾濫して大阪の街に洪水を引き起こし、明治18年の大洪水をきっかけに現在の北側の幅広の淀川に付け替えられた経緯がある。
天満橋から旧淀川を海側へ下ると中州があるが、ここが中之島。京からも大阪湾からも近く、昔は大商人の「淀屋」があり、日本の証券取引の始まりと言われる米や米手形の相場が立った。今は淀屋橋に名を残す。また、ここには現在日本銀行、大阪市役所、大阪市中央公会堂などが連なっている。
川の南に商人町船場がある。船場から見て北の突き当たりが淀川だったので北浜と呼ぶ、浜とは河岸のことだ。東京の兜町(シマ)に対し、大阪の北浜(ムラ)として金融街となった。ここは一時は東証に迫るほどの勢いがあった、かつての大阪株式取引所があったところだ。
※この地図はスーパー地形アプリを使用して作成しています。
頼まれれば、利を吐き出す売買も! 義侠の相場師
二十世紀の初め、北浜には岩本栄之助という「快男子」と呼ばれる相場師がいた。両替商の名家に生まれ、市立商業を卒業した。現在の大阪市立大学である。日露戦争に出征、陸軍中尉となり戦後北浜に帰ってきて、株式仲買人となっていた実家の後を継いだ。29歳だった。
日露戦争の相場では大暴騰の中、売り手に回った北浜の仲買人は青息吐息、買い持ちで儲けている岩本に無理を承知で売り方への転換を懇願した。利を吐き出す常識外れのこの頼みに、岩本は「北浜への恩返しと思って協力しましょう」と快諾。岩本の売りにすっかりバブっていた市場は落ち着き、北浜の仲買人たちは助けられた。
「岩本さんには足を向けて寝られへん」
若い者には「学問せなあかんで」が口癖で、私費で塾を作り、従業員には夜学へ行かせた。人からものを頼まれれば、できることなら何でもやってあげた。岩本はいつしか北浜の風雲児と呼ばれるようになった。
大阪の商人魂を貫き通した最期
1909年、渋沢栄一らと視察団で渡米した時に、米国の金持ち達が私財を投げ打ち社会貢献する姿に感動して、帰国後百万円(現在価値で数十億円に相当)を大阪に寄付することにした。これが現在中之島にある大阪市中央公会堂になった。
1911年に寄付を決め、設計には東京駅や日銀本店を設計した当代随一の辰野金吾を呼び、定礎式は1915年10月8日だった。
この頃、時代は第一次世界大戦。素人筋は戦争景気を期待して株式を買い進む。一方で玄人は日露戦争の反動相場の下落を経験していたから売りで対処したものだ。岩本も客の買い注文に売りで向かった。この時も空売りで苦境にあった北浜の業者達に頼まれた。
ところが市場は岩本ら玄人筋の思惑通りに運ばない。公会堂の定礎式の頃から株はどんどん上昇する。戦争中の欧州の国々が軍需品生産に傾斜する中で、途上国輸出向けの商品は不足する。戦地から離れた米国や日本が恩恵を蒙り、輸出が劇的に増加して企業収益が飛躍的に伸びた。日本が戦争の当事者だった日露戦争とは違ったのだ。
取引所がある北浜の川向こう中之島では、公会堂の建築が着々とすすむ。しかし岩本の評価損はたまる一方である。岩本はとうとう資金繰りにも窮するようになった。
「大阪市に頼んで、ちょっとでもお金を返してもろたらエエがな」
友人はすすめるが岩本は頑なだ。
「それをやったら大阪商人の恥や」
1916年10月22日、岩本は家族と40人ほどの従業員を京都へ松茸狩りに行かせると、軍人の時代から持っていたピストルで自分の喉を撃ち抜いた。岩本はそれでも死ねず5日ほど生死をさまよった。その間北浜の人達は天満宮にかがり火を絶やさず、岩本の快癒を祈ったが、空しかった。享年39歳。
公会堂はその2年後の1918年11月に開館、市場は熱狂が去りすでに下落していた。もう少し我慢していたら……しかし岩本は公会堂の完成した姿を見ることは無かった。
大阪市中央公会堂は1世紀を経た今も、国の重要文化財としてのレガシー的価値のみならず、大阪市の”宝箱”。現役の公会堂としてコンサートや講演会、展示会にも利用されている。岩本は死んで公会堂を残した。
現在、大阪市中央公会堂の地下一階には展示室が設置され、岩本の銅像がある。
義侠心なんかで相場したらあかん。冷たいようやがこれが戒めやーー岩本が遺してくれたのは、こうした考え方なのかもしれない。
大阪府のおすすめ観光スポット&グルメ
観光スポットは中之島の歴史的建築物をおすすめしたい。前述の大阪市中央公会堂は見学だけもできるがガイドツアーもある。大阪市役所を挟んで同じ中之島にある日本銀行大阪支店は日時が限定されているが見学が可能だ。またインバウンドの観光客が少ない間に大阪城を訪ねておくのもアイデアだ。混み出すと手におえない。
大阪は食い道楽、高級割烹から屋台のたこ焼きまで、美味しいものは何でもある。でも、せっかく旅で来たのであれば、ミナミの道頓堀、法善寺界隈でB級グルメを堪能したい。北浜の繁盛は大阪の食文化を育んだ。
「包丁一本さらしに巻いて」で始まる『月の法善寺横町』。
この法善寺の入り口には、織田作之助(通称:織田作)の小説『夫婦善哉』で有名なぜんざい屋が今もある。
法善寺のお不動さんは、願をかけながら水もバシャバシャとかける水掛不動さんだが、その左肩越しに「おかめ」というおでん屋の看板が見える、出汁で食べさせる典型的な大阪の関東煮(かんとだき、大阪ではおでんをこう呼ぶ)、女将さん一人でやっているが、おでん以外のメニューも何でも美味しい。
千日前通りを渡った難波センター街には、これも『夫婦善哉』に登場する洋食屋「自由軒」がある。
「自由軒のライスカレーは、ご飯にあんじょうまむしてあるよって、うまい」、織田作は主人公の種吉にそう言わせる。さらには「トラは死んで皮をのこす、織田作死んでカレーをのこす」との名言を残した。店内には今もその額が飾られている。
このカレーはインディアンカレーとも呼ばれて、ごはんとルーが事前にまぜてあり生卵が上にのっている。関西人はこれにウスターソースをかけて食べる。美味しいカレーだ。
実は筆者は自由軒に行く度に、永年このカレーだけを食してきたが、すこし前に故あってカツカレーを食べてみた。するとどうだろう、名物の影に隠れているが、このカツカレーも絶品だったのである。名物カレーと共にこちらもおすすめだ。