明治の著名人が続出。英語のみ! で授業をした洋学校

思わずドヤりたくなる! 歴史の小噺/ 板谷 敏彦

47都道府県、「この県といえばこれ!」というとっておきの歴史の小噺をご紹介する連載です。作者は、証券会社出身の作家・板谷敏彦さん。大の旅行好きで、世界中の主な証券取引所、また日本のほとんどすべての地銀を訪問したこともあるそうです。

第15回は佐賀県。佐賀県といえば、明治維新を推進した”薩長土肥”の肥前こと佐賀藩が有名ですが、県北部にあった唐津藩は近代化に出遅れてしまいます

そこで、遅れを取り戻すべく呼ばれた英語教師が、17歳の高橋是清。英語オンリーで学ぶ学校で刺激を受けた若者たちは、のちに日本近代化に貢献する人材となっていきます。あの人もこの人も同窓生だったことに驚かされます。
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明治政府主力の佐賀藩と出遅れた唐津藩

幕末の肥前国(現佐賀県)は南側に佐賀藩、北側に唐津藩があった。

佐賀藩(別名肥前藩)は36万石の大藩である。明治維新期には官軍主力である薩長土肥(薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩)の一角として貢献し、大隈重信(首相、早稲田大学創始者、侯爵)、大木喬任(おおき・たかとう。文部卿・東京市長・伯爵)、佐野常民(枢密院議長、伯爵)など多くの人材を輩出した。

一方で、玄界灘に面した北側の唐津藩は8万石ほどの譜代大名(関ヶ原の戦い以前から徳川に従う大名家)で、南に佐賀藩、東に47万石の大藩である福岡藩に囲まれた配置になっていた。幕府からは外様である両藩のお目付け役的な機能も持たされていた。

幕末、唐津藩主・小笠原家の世継ぎである小笠原長行(おがさわら・ながみち)は、江戸で幕府老中にまで出世し、戊辰戦争では幕府側として最後の戦いの地である函館でも戦った。

しかし、新政府の勝利が濃厚になると不利な立場に追い込まれる。小笠原家は長行と縁を切り、多額の賠償金をもって新政府に許しを乞うた。だが、結局、唐津藩は佐賀藩に比べて維新に出遅れた。

佐賀県の北側に唐津藩があった

※この地図はスーパー地形アプリを使用して作成しています。

知事の月給の3倍で、17歳の英語教師を雇う

明治4(1871)年の初夏、廃藩置県があり、藩は県になった。

元唐津藩家老で唐津県権大参事(副知事)となった友常典膳(ともつね・てんぜん)は、維新の遅れを取り戻すべく、洋学校の設立に奔走する。

資金は、藩の製紙事業の収益金で賄う計画だった。そして英語の教師を探しに、自ら東京へと出てきた。

英語教師がとても貴重で見つけることすら奇跡だった時代、唐津まで来てくれる人はそうはいない。募集の条件は賄い付きで月給100円。知事の月給が30円の時だから破格の給料である。現代でいえば、”1億円プレーヤー”というところだろう。

これに応募したのが、その時まだ17歳だった高橋是清である。米国への渡航経験がある高橋は若くして大学南校(東大の前身)の英語教師をしていたが、色恋におぼれて芸者の箱持ち(三味線の箱を担ぐ付き人)に落ちぶれていた。

借金もあった高橋は、なんとかせねばと一発奮起して、唐津へと向かったのだ。

唐津藩の英語教師となった高橋是清(写真は明治8年)

嫌がらせで焼かれた洋学校。唐津城内に再建

高橋が赴任した時は、まだ藩士たちは攘夷気分、大枚をはたいて呼んだ英語教師がいかほどの者か興味津々だった。

守旧派の藩士は若僧の高橋に大酒をすすめて困らせようとするが、高橋は生来の大酒飲みである。40人を相手にしても飲み負けなかった。

それでも、「こんな若僧に”1億円”も払うのか」と、世の中の動静を知らぬ田舎侍による外国語に対する嫌悪と嫉妬で嫌がらせは続き、ついに洋学校が守旧派に焼かれてしまう。

それでも高橋は、人から頼まれればやり遂げる。なんせ高齢となっても頼まれごとがあると断れず、計7回も大蔵大臣に就任したほどの人物である。洋学校が焼かれた後も、生徒への教育を続けた。

友常も再び奔走し、東京へ移住する藩主の邸宅を学校として使わせてもらいたいと依頼。唐津城内に洋学校を再建した。これが耐恒寮(たいこうりょう)である。

唐津城内には英語のみで授業をする洋学校があった(写真提供:佐賀県観光連盟)

開校期間わずか1年半も、近代化に貢献する人材を輩出

耐恒寮には50人の生徒が集まり、授業はすべて英語で行われた。生徒たちは全員高橋の真似をしてちょんまげを切り落とし、ザンギリ頭にしたので、価値観の古い攘夷派の武士たちを怒らせた。

また当時としては珍しく女子の入校も認めた。後に女学校を設立し、教師にしようとしたのである。

ところが1年ほどして高橋が他の教師を探しに東京に行っている間に、唐津県は隣にあった伊万里県(現佐賀県)に併合されてしまう。

副知事である友常は併合後失職してしまう元藩士のために、製紙や特産品の鯨製品などの収益を分け与えたのだが、これが公金横領として伊万里県側に逮捕される。

友常は一身に罪を背負って自決、脇差で喉を刺す。幸いにも九死に一生を得るのだが、耐恒寮は廃校となってしまう。合併によって、製紙事業の収益金で運営することができなくなってしまったためである。

耐恒寮はわずか1年半ほどの開校だったが、日本の近代化に貢献する多くの人材を輩出することになる。高橋を通じて英語と学問に目覚めた若者たちは、その後続々と東京を目指した。

狭い唐津から優秀な若門がごっそり抜けたので、「唐津からっぽ」と揶揄されたほどだ。

耐恒寮からは、東京駅や日本銀行本店を設計した辰野金吾(建築家・東大教授)をはじめ、天野為之(経済学者・早大学長)、曽禰達蔵(建築家)、掛下重次郎(大審院判事)、吉原政道(鉱業家)、大島小太郎(銀行家)などそうそうたる人材が輩出された。

彼らは高橋とほぼ同じ年齢で、互いに触発されながら学んだ。高橋もまた自分の弱点だった漢文を唐津時代に学んでいる。

筆者がこの話から思うこと。
後に首相を経験する高橋是清の功績がどうしても目立つが、歴史の陰には友常典膳のような地味ながら欠かせない功労者がいるものだ。
限られた場所の限られた時間に、一度に大量の優秀な者を輩出したのは、学生たちが異文化(高橋)に刺激され互いに切磋琢磨したからである。これは多様性のある集団の大切さを教えてくれる。

辰野金吾監修の旧唐津銀行(写真提供:佐賀県観光連盟)

佐賀のおすすめ観光スポット&グルメ

佐賀県唐津市の観光は大きく3ヵ所に分けられるだろう。

1.唐津市街
唐津駅と唐津城を含む市街地である。城下町の区割りが残り、商業地区と武家屋敷の違いなどが楽しめる。また耐恒寮の跡などにも碑が立っている。

松浦川の河口域、ぽつんと島のように海に面してそびえ立つ山の上に唐津城があり、天守閣に登れば四方の眺望が得られる(麓からエレベーター有)。

また城の石垣には隙間があり、風が吹くとまるで笛のようにヒューヒューと鳴るのは、本物の昔ながらの石垣だからだろう。橋を渡れば、”日本三大松原”のひとつ、名勝・虹の松原に行ける。

市街には全国的に有名な寿司屋「つく田」がある。このためにわざわざ唐津へ行く人もいるぐらいだ。予約必須である。

またアニメ『ユーリ!!! on ICE』で全国のフィギュアスケートとアニメファンの間で有名になったステーキ屋「キャラバン」もある。ここも調理前に肉を常温に戻す時間が必要なので、予約必須である。

聖地巡礼者が集う人気のステーキ屋「キャラバン」

2.呼子(よぶこ)町
呼子は透明なイカのお造りで全国的に有名だ。港の周辺にはイカを出す店がずらりと並んでいる。

そんな中、呼子まで来てイカを食べないのは変わり者に違いないが、アラカブ(かさご)で有名な「よしや食堂」も捨てがたい。また呼子の港では観光船が出ているが、充実した内容でおすすめである。

アラカブ(かさご)が一匹まるごと入ったみそ汁定食

3.名護屋城址
文禄・慶長の役(1592~1598年)は豊臣秀吉による朝鮮出兵である。その時の日本側の拠点が名護屋城である。ここには、内容が充実した「佐賀県立名護屋城博物館」があるのでぜひたずねたい。

また城の周辺半島全域にわたって、当時の家臣たちの屋敷跡がある。その規模の雄大さには驚かされるばかりである。

日本と朝鮮半島の交流史を学べる「名護屋城博物館」(写真提供:佐賀県観光連盟)