47都道府県、「この県といえばこれ!」というとっておきの歴史の小噺をご紹介する連載です。作者は、証券会社出身の作家・板谷敏彦さん。大の旅行好きで、世界中の主な証券取引所、また日本のほとんどすべての地銀を訪問したこともあるそうです。
第16回は愛媛県。住友化学、住友林業、三井住友銀行などを有する住友グループの発展は、別子銅山から始まりました。別子銅山は明治政府の接収を免れ、近代化を図ることで日本最大級の銅山となります。その銅山経営には、住友家から経営を一任された男の尽力がありました。社業・国益を第一に考える姿勢には敬服するばかりです。
「明治の著名人が続出。英語のみ! で授業をした洋学校」を読む
住友家が283年経営を続けた別子銅山
その昔、まだ場立ち達が証券取引所のフロアで活躍していた頃、株式売買執行時の銘柄間違いを起こさないように各銘柄には略称があった。例えば「 住友金属鉱山 」は「ベッシ」と呼ばれ、高炉メーカーの「スミキン」こと住友金属工業(現 日本製鉄 )とは区別されていた。
今回は、住友金属鉱山を「ベッシ」と呼ぶ由来であり、また現在の住友グループ繁栄の起点となる愛媛県・別子銅山を訪ねる。1973年に既に銅山としては閉鎖され、現在は産業遺産として関連施設がいくつか残されている。
別子銅山は、関東から九州までを貫く日本最大の断層である中央構造線のすぐ南に位置し、断層の活動によって地下深くから地表に浮かび上がった銅鉱床である。水平に長さ1800m、厚さ2.5m、板状のものが約45度から50度傾いて、上は海抜1200mから海面下1000mにまで達する大きさである。
元禄3(1690)年に、標高1000m付近でこの鉱床の一番上の部分(露頭)が発見され、銅鉱石の採掘が始まった。早くもその5年後には山の頂上付近に人口2700人もの鉱山町が形成されていたというから、よほど大きな発見だったのだろう。
それ以降、別子銅山は山の上から下に向かって掘り進められてきた。1691年から1973年までの283年間、一貫して住友家の経営が続き、坑道総延長700km、産銅量は65万トンにおよんだ。現在の住友グループは、明治以降の殖産興業の中で、この別子銅山で得た富を礎に事業を拡大してきたのである。
※この地図はスーパー地形アプリを使用して作成しています。
明治政府の接収を阻止し、日本最大級の銅山へ
別子銅山最大の危機は明治維新だった。別子銅山を経営していたのは住友家だったが、ここで生産される銅は幕府の銅座によって管理されており、鉱山は徳川幕府のものだった。維新で政権が変わると、別子銅山は官軍である土佐藩のお預かりとなった。新生・明治政府が接収しようというのだ。
維新の3年前の1865年に別子銅山の支配人になっていたのが、広瀬宰平(ひろせ さいへい)である。広瀬は11歳の頃から別子銅山で働いており、この時38歳という若さであったが、鉱山の事業を熟知していた。
広瀬は銅山の接収にやってきた何人かの土佐藩士の中から、一番若いがハキハキとして頼りになりそうな川田小一郎を選ぶと、「銅山経営を経験のない者に任せると、利益なく国家の損失になる」と日ごと夜ごとに説得。川田はこれを理解し、住友の経営が続くように政府との交渉に骨を折ってくれたのである。
川田のおかげで、鉱山経営を続けられるようになった広瀬は外国の技術を積極的に導入し、鉱山の近代化に努めた。以前は鉱石を人間がノミで砕き、背負って運んでいたが、ダイナマイトを使って爆破して砕き、砕いた鉱石の運搬には鉄道やロープウエーなどを活用した。
1893年には鉱石が集積される山の入り口から海までの下部鉄道と、それとは別に道路もない時代に標高835~1100mの地点に「上部鉄道」と呼ばれる日本初の山岳鉄道を開通させ、上部と下部鉄道は索道(ロープウエー)で連結された。かくして別子銅山は技術革新をテコに繁栄を極め、日本最大の銅山である足尾銅山に並ぶ規模となっていくのである。
「東の渋沢・西の広瀬」
1877年、広瀬は銅山支配人から、住友グループの舵取りを一身に引き受ける住友家総代理人になると、銅山以外の事業も拡張していく。
大阪財界の立役者・五代友厚の右腕として、大阪商船をはじめ、銀行や多くの会社の設立に参画、大阪商法会議所副会頭、大阪株式取引所の副頭取を歴任し、「東の渋沢、西の広瀬」と呼ばれるほどであった。現在、幅広い産業をカバーする住友グループは、別子銅山で稼いだ資本から始まっているのである。
広瀬の座右の銘は「逆命利君、謂之忠」(たとえ主君の命令であっても、国のためにならない命令には逆らうべし、それが忠義である)である。
「自分の保身や出世よりも、何が社業の発展になるかを考えて仕事をしなさい」という教訓である。一時別子銅山が経営危機に陥り、住友家が手放そうとした時、広瀬は大勢の意見に逆らい、自らの進退を賭けて止めた。
広瀬はこうした視点で人を雇い後継者を育て、住友グループの基礎を築いたのだった。渋沢栄一に比べて目立たないが、もっと注目されるべき人物である。
のちに日銀の法王と呼ばれた土佐藩士
別子銅山接収の危機の際、広瀬が頼りにした土佐藩士・川田小一郎も偉い人物である。川田は明治3年に役人を辞めて九十九(つくも)商会に入り、岩崎弥太郎(三菱財閥創業者)の右腕として活躍し、三菱グループの創始者の一人となる。
弥太郎の後継者が育つと、川田は自らの地位に固執せず、あっさりと三菱を引退した。
その後、川田は第3代日本銀行総裁となるが、維新の志士(編集部註:幕末に国のために活躍した人物を指す)出身だから政府首脳ともタメ口。用事のある者はたとえ大蔵大臣でも川田の自宅を訪ねたから、川田は出勤する必要がなかったのだそうだ。男爵となり、「日銀の法王」とも呼ばれた。
ペルーの銀山経営に失敗して、世間から見放され落ちぶれていた高橋是清(のちの総理大臣)を日銀に雇い入れたのはこの川田総裁である。
そんな川田が広瀬の熱意を組まなければ、今の住友はなかったかもしれない。
愛媛のおすすめ観光スポット&グルメ
別子銅山は主に新居浜市にある。以下の4ヵ所が見どころ、
1.マイントピア別子
鉱山跡の坑内を利用した鉱山学習施設である。施設から鉱山跡まではナローゲージ(線路幅が狭い)の観光列車が連絡している。
2.東平(とうなる)エリア
標高750メートルの地に、かつて5000人が暮らす鉱山町があった。現在はその遺構の景観から「東洋のマチュピチュ」と呼ばれている。歴史資料館なども充実している。山道を少し歩くのでハイキング程度の準備が必要だ。またアクセスの道路が狭いので、上記マイントピアから出るガイド付きツアーがお勧めである。見れば驚く景観である。
3.別子銅山記念館
住友グループが運営する別子銅山の博物館。1893年開通の鉄道用にドイツから購入した第1号蒸気機関車や、江戸時代の長崎貿易(輸出)用の御用銅などが見られる。上記のマイントピアや東平エリアを組み合わせて見学すれば鉱山の歴史に対する理解度が増すだろう。
4.広瀬歴史記念館
旧広瀬邸にある広瀬宰平にまつわる伝記的博物館。広瀬が住友家にご奉公した際の人物保証書の実物など、興味深い資料がたくさんある。歴史好きにおすすめ。
旅行の際には松山が起点になるであろうから、松山でグルメを堪能しよう。
1.鯛めし
愛媛の養殖鯛の全国シェアは50%強。松山の郷土料理といえば鯛めしだが、松山風と宇和島風の2種類がある。松山は焼いた鯛の炊き込みご飯、宇和島は鯛の刺身をタレにつけて飯に載せて食べる。どちらも美味い。
2.鍋焼きうどん
うどん屋に鍋焼きのメニューがあるのではなく、最初から鍋で調理するうどん屋なのだ。したがってメニューは、いなり寿司と鍋焼きうどんのみ。「アサヒ」と「ことり」が有名。
3.サントリー・バー露口
ご夫婦でバーを開いて63年。コースターの似顔絵はきっと30年ぐらい前のものだろう。サントリーが缶入り「角ハイボール缶<濃いめ>」を作った時のレシピはこのお店のもの。ここでは是非角瓶のハイボールを注文しよう。このバーの優れた点ははっきりしている。店と常連客が醸し出す和んだ雰囲気だ。一見のよそ者でさえ優しく迎え入れてくれる。