工女教育に尽力! 富岡製糸場・初代工場長は渋沢栄一の師

思わずドヤりたくなる! 歴史の小噺/ 板谷 敏彦

47都道府県、「この県といえばこれ!」というとっておきの歴史の小噺をご紹介する連載です。作者は、証券会社出身の作家・板谷敏彦さん。大の旅行好きで、世界中の主な証券取引所、また日本のほとんどすべての地銀を訪問したこともあるそうです。

第17回は群馬県。2014年に世界遺産に登録されたことが記憶に新しい「富岡製糸場」は、明治政府が官営模範工場として建設したものです。近代的な工場の先鞭となり、生み出した生糸は貴重な外貨を稼ぎました。

初代工場長を務めた渋沢栄一の師は、自分の娘をはじめとした工女たちの教育に力を注ぎます。器械を扱い世界最高品質のシルクを生み出す仕事は、お嬢様たちの憧れだったようです。
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関東最古の私鉄がある、群馬県

上越・北陸新幹線が走る群馬県高崎。ここは中山道の宿場町で昔から東京と長野、新潟を結ぶ北関東の交通の要衝だった。

ここを起点にして西へ向かって34kmほど、上信電鉄という単線の小さな鉄道が下仁田駅まで走っている。

この鉄道は明治30(1897)年に開通した。当時下仁田にあった中小坂(なかおさか)鉄山(現在閉山)の鉄鉱石運搬や、途中には富岡製糸場があったので絹製品や原材料の運搬、旅客輸送など充分な需要が見込まれたのだ。

そのため当時製糸場を所有していた三井財閥や沿線の養蚕(ようさん)農家が中心となって出資した。

富岡製糸場の絹製品を運んだ「上信電鉄」(写真は高崎駅)

実はこの上信電鉄は関東地方で現存するどの私鉄、例えば京浜急行や東武鉄道などよりも古い、関東最古の私鉄である。

当初は、このエリアの旧国名上野国(こうずけのくに)から名を借りて「上野(こうずけ)鉄道」を名乗っていたが、大正10(1921)年には関東山地を越えて長野県小海線の羽黒下駅と結ぶ壮大な計画を立てた。

この時に上野国と信州(長野)を結ぶという意味で「上信電鉄」に名前を変えたのだ。

ところが敷設許可は得たものの、難工事であることやその後の世界大戦などの不安定な社会情勢もあってか、地図を見てのとおり今でも下仁田駅が終点である。

上野国と信州を結ぶ意味だった上信電鉄

※この地図はスーパー地形アプリを使用して作成しています。

外国人が欲しがった「世界最高品質のシルク」

上信電鉄沿線の主要都市にある富岡製糸場の「製糸」とはシルク(絹)のことである。関東最古の私鉄が開通されるほど、当時の製糸工業は重要なものだった。

現代に生きる我々には当時の日本におけるシルクの重要性は理解しにくいかもしれないが、明治・大正・昭和と日本の貿易黒字の大半を稼いだ国家レベルの商品であった。

日本が開国したばかりの19世紀後半、世界の先進国は通貨システムに金本位制を採用していた。金本位制とは、その国の紙幣は決まった重量の金(ゴールド)といつでも交換できるという通貨制度である。

例えば日本がイギリスから蒸気機関車を輸入する場合、代金は英ポンドか金で支払わなければならない。日本にも大判、小判という金貨があったから、これで払えば良いし、あるいは銀と金は相場で交換可能なので、銀で払っても良かった。

しかし、そんな支払いを続けていたら、いつか国内の金銀は枯渇して日本は何も輸入できなくなってしまう。日本も何かを輸出し、代金として金を受け取る必要があった。

そこで目をつけたのが、外国人たちが欲しがった日本で一番の工業製品、シルクだったのだ。当時の日本のシルクは、蚕の飼育課程の工夫(例えば飼育用の建物)と品種改良により、世界最高品質を誇っていた。

日本の隆盛を支えた先鞭・富岡製糸場

シルクを大量生産するため、明治新政府は西洋から技術を導入し、近代的な工場を作る必要が生じた。その先鞭が富岡製糸場なのである。

日本の工業化の初期は繊維産業から始まり、造船、鉄鋼、電機、自動車と産業構造が変っていく。

コットン(綿)製品も明治期日本の基幹産業だったが、原材料の綿をインドやアメリカから輸入しなければならない。コットン製品の輸出で金を得ても原材料購入で金が出ていくとあまりプラスにはない。

一方でシルクは、原材料となる蚕も農家で育てることができるため、純国産である。原材料輸入の必要がないから金が入ってくるだけの構造をつくれた。

国産がなかった時代の鉄道資材も日露戦争のイギリス製の戦艦も、みなシルクで稼いだゴールドで支払った。シルクは明治日本の興隆を支え、その後の工業化につながっていくのである。

製糸工場の一部で繭を貯蔵していた

外貨(金)を稼ぐため、富岡製糸場は、明治5(1872)年に官営の器械製糸工場として生まれた。明治26(1893)年に三井家の経営となり、さらに片倉製糸紡績( 片倉工業 )へと経営が移った。生産のピークは昭和49(1974)年である。

その後シルクは化学繊維に押されて、昭和62年に工場は閉鎖した。その際、片倉工業がその歴史的価値を認識し、「貸さない・売らない・壊さない」を貫いて保存に努めたので、現在も操業当時の状態で綺麗なまま残されている。

2014年6月に、富岡製糸場とそれに関連する絹産業の遺産群が世界遺産として登録されたのはそのお蔭である。

当時の状態で保存された製糸器械

工女の教育に尽力した初代工場長

ここで注目したい人物は、富岡製糸場の初代工場長の尾高惇忠(おだか・じゅんちゅう)である。

尾高は名主の家に生まれ、幼少より学問に秀でていた。やがて生家で塾を開き、漢籍(中国の書籍)を教えた。

なお、そこで学んだのがNHK大河ドラマ『青天を衝け』でお馴染みの渋沢栄一である。ドラマファンには良く知られた話だが、渋沢は尾高の妹千代を嫁にした。

尾高は戊辰戦争では幕軍として参加したが、維新後は渋沢の縁で新政府に仕えた。用地の選定段階から製糸場にかかわり初代の工場長となった。

尾高はもともと真面目な人間である。目立ったエピソードはないが、私塾を開くなど地元では立派な人だと有名であった。「至誠如神(誠意のある人は神のごとし)」を信条とし、地道な経営に尽力した。

工場で器械相手に働くという経験が全くない時代のため人材募集に苦労したが、自分の娘の勇(ゆう)を工女第一号として採用し、規律を確立するとともに工女の教育にも努力していく。

全国から募集された工女は、のちに出身地へ戻り、器械製糸の指導者となることが求められていたため、知的水準が要求されていたのだろう。

過酷な勤務だった『女工哀史』と混同されることがあるが、富岡の当初の工女は選りすぐりのお嬢様ばかりだった。

こうして、尾高は日本初ともいえる近代工場のスタートアップを見事に成功させたのである。

娘を富岡製糸場の工女第一号とした尾高惇忠(写真提供:渋沢栄一記念館)

群馬のおすすめ観光スポット&グルメ

富岡製糸場へは、東京から日帰りで充分訪問可能である。最寄り駅は上信電鉄上州富岡駅。駅からは古い町並みを散策しながら徒歩15分ほどで行ける。

現代人には馴染みの薄い製糸工場だから、漠然と見学してもよくわからないことだろう。そこでおすすめなのがガイドツアーだ。

製糸場に到着したら、先ずガイドツアーの予約をしておこう。混んでいたら音声ガイド機の選択もある。

世界遺産に登録されたのは富岡製糸場だけではない。周辺の一連の見どころ情報をまとめた「世界遺産 富岡製糸場と絹産業遺産群 上武絹の道」という自治体の詳しいサイトがあるので、訪問する際には是非参考にしてほしい。

また関東最古の私鉄である上信電鉄そのものが、非常に魅力的な観光施設である。始発のJR高崎駅からは、のどかな田園風景が続く。

途中駅にはレトロな駅舎が多いので、昔の風景をイメージしながら楽しむことができる。

大正時代にタイムスリップしたような下仁田

また、富岡駅を過ぎて下仁田駅が近づくと、線路は河岸段丘(編集部注:川の流れに沿ってつくられた 階段状の地形のこと)を登りはじめて、にわかに登山電車の様相を示す。

そうしてたどり着いた下仁田の街は時代をタイムスリップしたような感覚になる。しかも、「昭和」というよりはむしろ「大正」のような街なのだ。

正確な統計は手元にないが、北関東の古い街には洋食屋が多いように感じる。昔は工場で働くハイカラな人達にとって、洋食はハレの日の贅沢な食べ物だったから、繊維産業で栄えたこの地域には洋食屋が多いのではないだろうか。

大正14年創業の和洋レストラン「新洋亭」が上州富岡駅から富岡製糸場への道すがらにある。ここのカツ丼は、ソースカツ丼がデフォルトである。

また上信電鉄の終着駅下仁田駅には、ギュッと詰まった小さな街ながら、個性的な店が複数ある。豚すき焼きの「コロムビア」、大正8年開業の洋食屋「日昇軒」、和洋中の「食亭エイト」なども歴史を感じさせる。

こうした食堂群は下仁田の街がいかに古くから繁栄していたかを思い起こさせる。

下仁田の街にあるレトロなビリヤード場

そうした中でも「一番」はタンメンと餃子が売りのごく普通の町中華。テレビ番組『孤独のグルメ』で紹介されて一躍有名店になったが、高齢のご夫婦のご主人が転倒して店に立てなくなったと聞いた。ところが訪問してみると、放映時に見習いだった青年が、今ではきちんと料理を継承していた。

カウンター越しに目の前の中華鍋で炒める野菜の音、そこにスープが入るとザーという音がして香りが立つ。調理の様子もタンメンの醍醐味である。古い街によく似合う。

「一番」自慢のタンメン