47都道府県、「この県といえばこれ!」というとっておきの歴史の小噺をご紹介する連載です。作者は、証券会社出身の作家・板谷敏彦さん。大の旅行好きで、世界中の主な証券取引所、また日本のほとんどすべての地銀を訪問したこともあるそうです。
第20回は長崎県。鎖国時代、出島が設けられたおかげで海外と交流のあった長崎は国際感覚豊かな人材を生みました。映画会社「日活」の前身の創立メンバーである梅屋氏もその一人。中国の革命家・孫文と若くから親交を深め、生涯にわたり資金援助をしつづけたそうです。開国まもない明治時代に、海外の革命家を信じ、資金を投じた彼の半生とは?
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車窓から眺める有明海は期間限定
博多発長崎行きのJR特急かもめに乗り、佐賀駅を過ぎてしばらく行くと、列車はやがて有明海沿いを南下する。すると、進行方向左手に美しい有明海の景色が広がる。線路が南西に方向を変える肥前大浦までが佐賀県。その後、雲仙岳の雄姿が視界に入ってくると、ああ、長崎へ来たんだなと実感するのである。
長崎本線のこの部分は単線で、急峻(きゅうしゅん)な山に続く海岸線に沿った線路はカーブも多く、速度が制限される。残念ながらこの不便さは美しい車窓風景とはトレードオフの関係にあるのだ。
2022年の秋には長崎(西九州)新幹線が武雄温泉から長崎まで開通する。長崎へのアクセスは早くなるが、特急かもめの車窓からの有明海は失われてしまうから、早めに訪れることをお奨めする。進行方向左側の席を確保しよう。
長崎県は平担な土地があまりなく、山岳丘陵が起伏し、半島、岬、湾、入江が曲折している。さらに県内には70余りの島があり、県の面積の45%を占めている。人の住めるところは少ないが、昔から天然の良港に恵まれた。
陸路でのアクセスは難しいが良港がある。その地理を活かし、徳川幕府の鎖国時代、長崎には出島が設けられ、幕府による管理下のもと、オランダと中国との貿易だけが許された。
そのためオランダ語を通じて西洋世界の知見を日本にも流入できた。これが蘭学である。全国から有為の(編集部註:有能な)士が遊学のため、長崎にやってきた。外国に一番近く、坂本龍馬など、幕末の志士たちも闊歩した都市・長崎。
その独特の文化・風俗は今でも旅人を魅了する。
※この地図はスーパー地形アプリを使用して作成しています。
「君は兵を挙げたまえ、我は財を挙げて支援す」
そんな海外に開いていた長崎を代表するエピソードが孫文と梅屋庄吉の物語である。
中国の国父、孫文(1866-1925年)は1911年の辛亥革命によって清朝を終わらせ、中国近代化の道筋を切り開いた革命家である。
孫文の死後4年を経た1929年になって、当時の中国国民政府は孫文の国民葬を挙行したが、その時、棺を担いで孫文の墓の階段を登る40人の中に、ただ一人日本人が混じっていた。これが長崎の偉人、梅屋庄吉(1869-1934年)である。
梅屋は、長崎で生まれてすぐに貿易商の梅屋商店に跡継ぎとして養子に入った。やんちゃな性格に育った梅屋は米国留学を目指すが、海難事故に会い断念。その後、米相場に手を出して失敗したりしながらも、やがて香港で始めた写真館「梅屋照相館」が大繁盛して財を成した。
繁盛の理由は今でいう出張撮影を始めたこと。当時としては斬新なサービスだったのだ。まさに、梅屋の企図した米国留学や香港でのビジネス展開などにみられる地理的スケールの大きさは、国際都市長崎出身者ならではのものといえる。
一方の孫文は、香港の西医書院(現香港大学医学部)を卒業し、医師となる。しかし医師では一人一人の人間しか救えないが、革命家であれば大勢の中国人を救うことができると考えた。
当時の中国は清朝末期、英仏露独日の列強によって中国はまるで瓜でも切り分けるかのように植民地分割される「瓜分の危機」の最中だった。
梅屋が孫文と出会ったのは1895年の香港。梅屋27歳、孫文29歳のときである。当時の中国(清国)は日清戦争に負けたばかりであった。
2人は中国と日本は互いに争わず、同じアジア人種として西洋列強の専横(横暴)に対して共に立ち上がるべきだと語りあった。そしてすっかり意気投合した梅屋は孫文にこう言った。
「君は兵を挙げたまえ、我は財を挙げて支援す」
ビジネスの才覚があった梅屋は、その後も香港からシンガポール、そして日本へ活動の幅を広げる。さらに、写真から活動写真(映画)へとビジネスを展開し、日活の前身となる映画会社も立ち上げた。そして約束通り、儲けたお金は孫文の革命活動へとつぎ込んだ。
その間、孫文は亡命も含めて何度も日本と長崎を訪ねては、梅屋との親交を深めた。
孫文の恋心もサポートした梅屋夫妻
1915年、袁世凱(えんせいがい)に追われて日本へ亡命中の孫文は、最大の支援者である宋耀如(そう かじょ)の娘で、また自分の秘書でもある宋慶齢(そう けいれい)と恋に落ちてしまう。孫文49歳、慶齢22歳、孫文には中国に妻がいた。秘めた恋である。
そんな折り、慶齢が体調を崩した父とともに上海に帰ってしまう。孫文はひどく落ち込んだ。ふさぐ孫文の様子に気がつき、その理由にピンときたのが梅屋の妻・梅屋トクである。
「正式に離婚して慶齢と結婚したい。彼女と結婚できるのであれば明日死んでも悔いはない」
この孫文の決心を聞いたトクは庄吉に相談もせず、上海にいる慶齢に伝えた。すると、慶齢は親の大反対にも関わらず鞄ひとつで家出し、孫文のもとへと来たのであった。
孫文は元の妻とは円満に離婚し、梅屋は自宅を開放して2人の結婚式を挙げた。出席者は犬養毅、右翼の巨頭・頭山満、宮崎滔天(とうてん)などである。その後も孫文と梅屋は夫婦ぐるみでの深いつながりが続いた。
戦前の日本は大陸進出で中国に迷惑をかけた印象が強いかもしれない。しかし、その一方で同じ東洋人として、西洋列強からの解放を手助けする人たちが大勢いたことも記憶されるべきである。
事業を興し、儲けた金を信じる者へと投じる。見返りは求めない。そんな日本人がいたことを覚えておきたい。
旧香港上海銀行長崎支店の建物は、現在「長崎近代交流史と孫文・梅屋庄吉ミュージアム」になっている。興味がある方は是非。
長崎のおすすめ観光スポット&グルメ
長崎市の観光は大きく5つのエリアに分けられる。
②長崎歴史文化博物館
③稲佐山・山頂展望台
④思案橋を中心とする繁華街
⑤グラバー園、旧香港上海銀行長崎支店
の各エリアである。
※この地図はスーパー地形アプリを使用して作成しています。
①②④⑤は長崎市電で結ばれているので、一日乗車券を買えば移動はスムーズだ。Google Mapの経路機能を活用すれば③へのバス便、ロープウェーも含めて表示され、長崎の各エリアの移動は簡単である。また稲佐山は人数が揃えばタクシー会社のツアーも手軽に使える。
どのエリアがおすすめかと聞かれても、「全部です」というほかない。交通機関が発達しているので丸一日あれば充分に回れる。
④の新中華街、思案橋のグルメなエリアは夜にとっておけば良いだろう。国際都市としての歴史を持ち、坂本龍馬や孫文、梅屋が闊歩した街、長崎の独特な雰囲気を楽しめるだろう。
旅人にとって長崎のグルメと言えば、ちゃんぽんに卓袱(しっぽく)料理、トルコライスだろうか。
全国展開する「 リンガーハット 」のおかげで、ちゃんぽんなんかどこでも食べられると思うかもしれないが、それは大きな間違いだ。
長崎では別の食べ物だと考えた方が良いぐらい美味しいものだ。老舗の「江山楼」、「四海樓」、福山雅治が通う「思案橋ラーメン」など、店によって色々とバラエティがあるから、是非事前に調べておきたい。餃子も格別に美味しかった。
老舗の「?宗(よっそう)」では、中華料理や西洋料理が日本化したといわれる長崎名物・卓袱料理を頂き満腹になるもよし、名物の茶碗蒸しとバッテラだけを食するのもありだ。
そうすれば、一晩でさらにちゃんぽんや餃子が腹に入るかもしれない。
もうひとつ長崎で有名なのがトルコライスだ。基本は豚カツ、ピラフ、ナポリタンが一皿にのっていること。ただしここから様々なバラエティが派生している。
それは例えばカレーを加えたり、トルコはイスラム教だから豚肉はおかしいと、羊肉を入れた真正トルコライスなどもある。これも店によって様々だし、提供する店も多いからよく調べて行った方が良い。