47都道府県、「この県といえばこれ!」というとっておきの歴史の小噺をご紹介する連載です。作者は、証券会社出身の作家・板谷敏彦さん。大の旅行好きで、世界中の主な証券取引所、また日本のほとんどすべての地銀を訪問したこともあるそうです。
第21回は福井県。20世紀前半、敦賀を経由したヨーロッパへの直通列車があったのをご存じですか? このルートを使い、第二次世界大戦中、多くのユダヤ人が東へ脱出しました。
通過するために必要だったビザを当時の日本人外交官は出発直前まで書き続けます。本国の命令を無視し、人道的な行動を貫いた姿とは?
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大戦以前、日本海側が外国貿易の表玄関だった
福井県の景観は地図上の黄色い線の位置にある断層(甲楽城断層および柳ヶ瀬断層)によって、大きく嶺北と嶺南の2つの地域に分かれる。
県庁所在地の福井市がある嶺北は地図のように平野部が多いが、嶺南は細かい入江や湾、小さな半島が複雑に入り込んだリアス式海岸となっている。
リアス式海岸は沿岸部でも水深があり自然の良港を提供する。嶺南にある敦賀市や小浜市などは琵琶湖の舟運や鯖街道などを通じて京都とのアクセスもよく、古くから港として栄えてきた。
また20世紀に入ってロシアや中国が共産化して貿易が途絶える大戦以前は、日本海側が日本の外国貿易の表玄関でもあったのだ。
※この地図はスーパー地形アプリを使用して作成しています。
新橋発ヨーロッパ行きの列車があった!?
日本初の鉄道の開通は明治5(1872)年の新橋-横浜間である。
ここ敦賀も朝鮮半島やロシアとの交易の拠点として重要視され、明治17(1884)年、琵琶湖舟運の拠点である長浜との間に日本海側として初めての鉄道が開通した。
その後、京都と長浜の間に鉄道が開通し、琵琶湖の舟運は衰退するが、米原駅経由で東京や名古屋と直結していたおかげで、敦賀の港はますます繁栄したのである。
敦賀港は明治32(1899)年に貿易港として政府から開港場に指定され、明治35(1902)年にはウラジオストクとの間に定期航路が開設された。
飛行機便がまだない時代に、敦賀はロシアを通じて欧州との玄関口になった。
日露戦争(明治37−38年:1904−1905年)が終わると、シベリア鉄道がウラジオストクからヨーロッパまで全線開通する。
明治45(1912)年6月には新橋発敦賀行きの列車が設定された。この列車は敦賀からウラジオストク行きの定期船と連絡しており、その先はシベリア鉄道と通じていた。このため欧亜国際連絡列車と呼ばれた。
このルートは、第一次世界大戦とロシア革命によってしばらく不通となったが、1925年になって日ソ連の国交が回復すると、新橋発ベルリンやロンドン、パリ行きの欧亜国際連絡列車が復活する。
同年「ジャパン・ツーリスト・ビューロー(交通公社、略称:JTB)」が設立され、新橋発ベルリン行きは一枚の切符になった。
新橋から敦賀、ウラジオストク、ハルビン、モスクワ、ワルシャワ経由であればパリまでたったの17日。
インド洋、スエズ運河経由の船便であれば40数日を費やしていたので、欧亜国際連絡列車で欧州は画期的に近くなったのである。
しかし平和は長く続かず、残念ながら第二次世界大戦が再び世界を分断してしまうのだ。
※この地図はスーパー地形アプリを使用して作成しています。
領事館を追い出されても書き続けた「命のビザ」
連絡列車により敦賀は欧州との中継点となった。そのため欧州で起こった出来事は、敦賀を通じて日本に影響を及ぼす。
ナチスやソ連によるユダヤ人迫害も例外ではない。
昭和14(1939)年、ナチスドイツが西側からポーランドに侵入すると、ソ連も続いて東側からポーランドに侵入して国土を二分した。
ナチスドイツのユダヤ人迫害はホロコーストとして有名だが、ソ連もまたユダヤ人には厳しい迫害を加えていた。そのため、この時ポーランドに住んでいたユダヤ人は隣国リトアニアへと逃げ込んだ。
ところが翌年、ソ連はリトアニアも併合してしまう。
行き場を失ったユダヤ人は、ナチスのいるドイツ側へ逃げるわけにもいかない。残された道は、シベリア鉄道を伝って日本経由で米国など第三国へ逃げるだけとなった。
不幸中の幸いで、当時のソ連は外貨(米ドル)欲しさに、ユダヤ人に対してシベリア鉄道の利用を許していたのだった。
だが、彼らがソ連領を横断して東側へ脱出するためには、シベリア鉄道終点のウラジオストクの先にある日本の通過ビザが必要だったのだ。
在リトアニア日本領事館の周囲はビザを求めるユダヤ人であふれかえる。
既にソ連から退去を求められていたリトアニア領事・杉原千畝(すぎはらちうね)は、本国にビザ発給の是非を問い合わせた。
しかし当時日本が締結していた日独伊三国同盟に配慮する外務省本省は、最終目的地の許可がある者のみ発給すべきと返信した。
だが、リトアニアにそんなユダヤ人などいない。日本へのビザが無ければ、目の前のユダヤ人たちは確実に殺害されるであろう。
そこで杉原は自身の職を賭して、本省の指示を無視して独断でビザを発給した。
領事館退去が迫る中、もはや充分な時間は残されておらず、領事館を追い出された後は近隣のホテルで、また出発前の駅でとビザを書き続けたのである。
発給したビザはリストに記載されたもので2139枚。リスト以外のビザもあったと推定されており、一説には4500枚と言われている。
この時に命を永らえたユダヤ人の子孫は、現在では4万人を数えるという。シベリア鉄道を横断し、ソ連から脱出してきたユダヤ人たちを敦賀の人たちは温かく迎えた。
杓子定規な規定にこだわらず、人命を優先した杉原は人間として立派である。
だが本省の指示を無視するような外交官ばかりでは、一国の外交はまわらない。ルーマニアで終戦を迎えた杉原は、戦後外交官の職を追われ、ソ連相手の小さな商社で働いていた。
歴史の闇に消えかけた杉原だったが、1985年イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では初で唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞した。杉原はまだ存命中だった。
現在、敦賀市では博物館「人道の港 敦賀ムゼウム」を設立し、欧州から難を逃れて敦賀に上陸した人々の物語を保存して現代に発信している。
杉原とともに、第一次世界大戦終了に伴ってロシアから救出されたポーランド人孤児たちの史実も展示されている。
こうした博物館を訪ねると、いかに自分は日本の歴史を識らないのかと再認識させられることになるだろう。
福井のおすすめ観光スポット&グルメ
敦賀にはいくつかの博物館がある。
「人道の港 敦賀ムゼウム」では、昔の敦賀港ウラジオストク行き波止場の建物が再現され、杉原千畝やポーランド孤児の史料が展示されている。
「敦賀鉄道資料館」は、旧敦賀港駅の駅舎を模して建てられた博物館である。小さな博物館だが、模型や細やかな展示は鉄道マニアが作ったと感じられる。
「敦賀市立博物館」は、敦賀の有力銀行だった旧大和田銀行本店の建物跡を利用したもので、北前船主出身で敦賀の偉人・大和田荘七の大和田家と敦賀港の歴史が展示されている。建物自体が貴重である。
「北前船主の館・右近家」は敦賀市街地から離れているが、右近家の邸宅と、丘の上に建てられた西洋館が物珍しい。
中には暖炉やピアノもあり、地方にありながら戦前の富豪のハイカラな生活が忍ばれる。北前船は本当に儲かっていたのだなと実感する。
その他にも氣比(けひ)神宮、昆布商品販売所でありながら博物館機能もある「敦賀昆布館」、北陸本線の旧トンネルを中心とする数多くの鉄道遺産など敦賀には見所がたくさんある。
福井県の洋食といえば、福井市の老舗「ヨーロッパ軒総本店」のソースカツ丼が有名だ。
敦賀市にはその福井の店舗から80年ほど前にのれん分けされた「敦賀ヨーロッパ軒」があり、独自の発達を遂げている。
敦賀本店の建物は独特の風情でとても洋食屋とは思えないが、料理はかなり美味しい。福井出身の歌手五木ひろし氏イチオシらしく、店内にはポスターがいっぱい貼ってあった。
また、敦賀駅改札外の立ち食い蕎麦屋「気比そば あまの」も、もちもちとした蕎麦と出汁のきいたつゆで、全国の立ち食い蕎麦マニアの垂涎の的となっている。
夕食ならば、駅前の「地魚料理 まるさん屋」がおすすめだ。全国から美味いものを集めているが、やはり地元若狭湾の地魚が新鮮で絶品である。
写真は串刺しにして1本を丸ごと素焼きにした浜焼きさば。鯖の脂から出た煙で燻製のようになっていて、冷めても美味い。近隣の小浜市の名産であるが、ここでも提供してくれる。