「国防は軍人の専有物に非ず」平和を愛した軍人首相

思わずドヤりたくなる! 歴史の小噺/ 板谷 敏彦

47都道府県、「この県といえばこれ!」というとっておきの歴史の小噺をご紹介する連載です。作者は、証券会社出身の作家・板谷敏彦さん。大の旅行好きで、世界中の主な証券取引所、また日本のほとんどすべての地銀を訪問したこともあるそうです。

第24回は広島県。県初の総理大臣は、ワシントン軍縮会議で全権を委任された元軍人です。自身も軍人でありながら、軍部の猛反対を押しのけ、軍縮をまとめ上げました。国防は軍人の専有物に非ず――。国家の将来のため、戦わない道を選んだ彼の考えとは。
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かつての軍都は、平和を伝える都市に

広島市は背後に中国山地を控え、太田川が6本に分かれて瀬戸内海に流れ込む。市街地はこの大きな三角州の上にある。県内には140もの島があり、山海の豊富な自然に恵まれている。

広島は長崎とともに原子爆弾が投下された都市。第二次世界大戦以前の広島は軍都であった。1894年からの日清戦争では明治天皇が滞在し、大本営が設置された。また東からやってきた兵は、広島の宇品港から朝鮮半島へと向かったのである。

一方で現在の広島は核爆弾被爆の地として惨禍を記録し、平和を祈念してその記憶を語り続けている。

東には旧海軍工廠(かいぐんこうしょう 編集部注:海軍の艦船・兵器・弾薬などの製造・修理・購入・実験などをする施設)があった呉市、西には世界遺産の厳島(いつくしま)神社がある。

広島には平和記念公園とともに旧海軍の施設もある

※この地図はスーパー地形アプリを使用して作成しています。

第一次世界大戦後、世界第3位の海軍国となった日本

英国に「ジェーン年鑑」という1898年創刊の図鑑がある。これは現在でも毎年発刊されていて、年度ごとの各国海軍の戦闘艦などが兵装や諸性能とともにリストアップされている。

第一次世界大戦が始まる直前に発刊されたジェーン年鑑1914年度版を見ると、海軍戦力の1位は英国。2位はドイツ、3位が米国で、日本は4位に位置している。

戦争が終わると、ドイツ艦隊は英国の北端にあるスカパフロー湾に集合させられた。敗戦国ながらほぼ無傷で残った戦艦を、米英日仏伊など戦勝各国に分配させるためである。第一次世界大戦勃発の重要な原因のひとつが英独両海軍による建艦競争だったぐらいなので、ドイツ艦隊は大規模なものだった。

ところが処分が決まろうとする直前になって、ドイツ艦隊はすべての艦をドイツ人乗組員の手によって自沈した。敵の手に渡ることを良しとしなかったのだ。狭い湾内に大量の軍艦が同時に沈む、これは壮絶なシーンである。

だがこの話は日本ではあまり知られていない。それは当時の日本も巨額の国家予算を投じて艦隊を建設していたからである。そんな艦隊が、その高価さゆえに海戦を避けて無傷で残り、最後は一度に消滅する話は都合が悪いのであまり報道されなかったのだ。

ドイツ艦隊が自沈した結果、第一次世界大戦後の日本は世界第3位の海軍国となった。

日本は対英米6割にすべし! ワシントン海軍軍縮会議

戦後も英米日による建艦競争は続いたが、英国経済は戦争で疲弊し、米国は議会から建艦費にクレームがついた。日本も八八艦隊を建艦中だったが、その費用は毎年国家予算の3分の1を占めるもので、財政的にはかなり無理があった。

そこで米国が提案したのが、1921年11月から開催されたワシントン海軍軍縮会議である。

米国の提案内容は、下記であった。

・戦艦のトン数制限比率を英5米5日3とすること
・計画あるいは建造中の戦艦は直ちに廃棄すること
・今後10年間は新しい戦艦を作らないこと

戦後の米国は、中国の利権をめぐり日本の仮想敵国となっていた。海軍軍令部(参謀本部)は、太平洋を挟んだ米国との決戦に最低対米7割の戦力が必要だと考えていた。したがって当時の海軍では、対英米6割という条件は簡単に呑めるものではなかった。

大正時代、平和に貢献した首相は「軍人」だった

ワシントン海軍軍縮会議の日本全権代表の筆頭が、加藤友三郎海軍大臣(大将)だった。加藤は広島城下の貧しい武家の生まれ、海軍兵学校7期卒業、生粋の海軍軍人である。

日露戦争の日本海海戦の時は、飛び交う砲弾の中、東郷平八郎とともに戦艦・三笠の艦橋上に立ち続けて、艦隊の士気を鼓舞した勇ましい軍人である。NHKドラマ「坂の上の雲」では草刈正雄が演じていた。

しかし一方で、加藤は政治家としての健全な能力も高かった。海軍軍縮とは、海軍という官僚組織の縮小でもあり人員削減も意味する。

ワシントンに随行した海軍幹部たちは日本の軍備を制限する条約に大反対をした。組織防衛である。しかし加藤は海軍だけでなく、日本という国家の将来を考えて、海軍を統制しワシントン海軍軍縮条約をまとめあげた。

その際、本国に向けて発した電報のメモがある。

国防は軍人の専有物ではない。もし仮に米国と同等の戦力を持ったとして、いざ戦争となると金がいる。ならばその金はどこから借りるのか。米国以外に日本の外債を買える国はない。しかしその米国が敵であるとすれば戦争などできるわけがないではないか。

国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養(かんよう)し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず

※涵養…無理せず育てる

加藤は軍人でありながら、米国とは戦わないことを選んだのだ。

このワシントン海軍軍縮条約の結果、英米日仏伊の列強は以降10年間新しい戦艦を造らなかった。これをネイバル・ホリディ(海軍の休日)と呼び、ワシントン体制を築いた。日本をはじめとする各国は国家予算の逼迫から逃れることができたのである。

加藤は会議開催の翌1922年6月、第21代内閣総理大臣になる。広島県出身初の総理大臣である。当時広島は提灯行列で喜びに溢れたと記録にある。

加藤は首相就任後、当時国際問題化していた日本のシベリア出兵を終わらせ、中国と揉めていた山東省返還問題に終止符を打った。デモクラシーの大正時代、平和に貢献した総理大臣は実は政党政治家ではなく軍人だったのだ。

広島城に隣接する広島市中央公園には加藤の銅像がある。加藤は軍人として最高の地位である元帥まで上り詰めたが、その姿は軍服ではなく、ワシントン会議の時に着ていたフロックコート姿である。

豊田穣(著)『蒼茫の海 提督加藤友三郎の生涯』(光人社NF文庫)

広島のおすすめ観光スポット&グルメ

ウクライナでロシアによる理不尽な侵攻が続くこんな時だからこそ、加藤友三郎の出身地・広島で、平和を考える旅を提案したい。

①原爆ドームと広島記念公園、広島平和記念資料館
核の使用をほのめかす他国の指導者が存在する中で、広島平和記念公園を訪ね、核による攻撃とは何なのか、またその被害、人体に及ぼす影響とはどのようなものであるのか是非識っておきたい。

平和記念公園から見る原爆ドーム

②大和ミュージアムと海上自衛隊呉基地
現在のジャパン マリンユナイテッド(JMU)呉事業所は、旧・帝国海軍呉工廠、世界最大の戦艦「大和」が建造された場所で、今も造船所である。

ここには「大和」建造をテーマにした大和ミュージアムが隣接し、港巡りの遊覧船では海上自衛隊呉基地の艦船を見学することができる。加藤の戦わない海軍も、備えがあればこその抑止力を持った。

現在の我々の平和は、自衛官をはじめとする様々な人々の努力の上に成り立っていることを実感できるだろう。平和公園と戦艦大和や海上自衛隊を識ることは決して矛盾するものではない。

JMU呉事業所に停泊する護衛艦「かが」

③厳島神社
日本三景のひとつで世界遺産でもある。現在は有名な海上の鳥居が修復中だが、水面に浮かぶ社殿の美しさは唯一無二の景観である。

日本三景のひとつ、水面に浮かぶ厳島神社

広島のグルメといえばお好み焼きだ。実際街を歩いていれば店はいくらでもある。店舗が集中している集合ビルもあれば、広島駅構内に有名店がいくつか集まっていたりもする。ガイドブックやサイトも多いので探すのには困らないだろう。

なので、今回は広島を代表する繁華街流川にある小魚料理「とみ助」を紹介したい。

ご存じのように瀬戸内海は流れがあり浅い海底の砂が攪乱される。そのため、プランクトンが育ち栄養が豊富な状態にある。したがって魚が美味い。ところが瀬戸内でも特に小魚料理を看板にする腕の良い割烹は希少である。

そんななか「とみ助」では、鰺や鰯や穴子、ありふれた素材を巧みに調理する。写真は鰺フライだが、見てのとおり、頭も骨もすべて個別に揚げてまるごと食べられるようにしてある。また広島は灘、伏見と並ぶ三大酒処だ。小魚にあう甘口に吟醸香が特徴の美味い日本酒がたくさんある。

ショットバーでは「バー スランジーバ」が全国的に有名だ。ちょうど「とみ助」を出た向かいのビルにある。

頭・骨を個別に上げてまるごと食べる「とみ助」の鯵フライ