稀代の報道写真家が生涯撮り続けたのは、山奥の寺だった

思わずドヤりたくなる! 歴史の小噺/ 板谷 敏彦

47都道府県、「この県といえばこれ!」というとっておきの歴史の小噺をご紹介する連載です。作者は、証券会社出身の作家・板谷敏彦さん。大の旅行好きで、世界中の主な証券取引所、また日本のほとんどすべての地銀を訪問したこともあるそうです。

第26回は奈良県。古都・奈良には古くからの寺神社が多くあります。そんな寺のひとつに、昭和を代表する写真家が魅了され、生涯をかけて撮り続けた寺があるのだそう。弟子たちに車椅子を担がれながら、臨んだ撮影とは……
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修学旅行スポットが集まるのは、奈良県北部低地

奈良県はおそらく一般に想像されているよりも南に長い。吉野川に沿って東西に走る中央構造線によって、北部低地と吉野山地を中心とする南部山地に2分される。

人口が集中しているのは北部低地のうち大阪寄りの奈良盆地のエリアである。この盆地の北東端に奈良市があり、修学旅行でよく行く大仏殿の東大寺や鹿がいる春日大社、若草山がある。

春日大社の裏にある春日山は、平安時代に神域として狩猟伐木禁止の命令(太政官符)が朝廷より出て以来、現在まで原生林が保たれている。またその昔、神様が常陸国から春日山へお越しになる時、白鹿に乗ってやってきたという言い伝えから、鹿は古来より神の使いとして大事にされてきた。

「春日山原始林」と「奈良の鹿」はともに国の特別天然記念物である。

中央構造線で北部低地と南部産地に分かれる

※この地図はスーパー地形アプリを使用して作成しています。

奈良の人が早起きの理由!? 「鹿殺し=死刑」

明治以前、鹿殺しは死刑だった。平安時代に誤って鹿を殺してしまった三作(さんさく)という学僧は、鹿の死骸をくくりつけられ、掘った穴に石とともに埋められる「石小詰」という刑罰で処刑されたという伝承が残っている。三作の墓は今でも興福寺の子院寺の敷地内に残っている。

奈良は昔から朝が早い。何故なら朝起きて自宅の前に鹿の死骸があったら大変なので、よその家の前に動かすためだと言われている。そうしていつしか奈良の人はお互いに牽制して皆早起きになったのだそうだ。もっともこれは上方落語「鹿政談(しかせいだん)」のマクラの話ではあるけれど。

奈良県の偉人といえば、天武天皇、藤原不比等、行基たちが最初に思い浮かぶ。でもそれではあまりにも古いので、今回は奈良と深く関係する稀代の写真家・土門拳(どもんけん)を取り上げてみたい。

神の使いとして大切に扱われる奈良の鹿

稀代の報道写真家が愛し続けた「室生寺」

土門は昭和の日本を代表する写真家だ。1958年に写真集『ヒロシマ』で被爆者の現実を世界に知らしめ、翌年には滅びゆく炭鉱の貧困の現実を描いた『筑豊のこどもたち』を出版し、社会派の報道写真家として名をなした。1977年には日本経済新聞に『私の履歴書』も執筆し、当時の知識層には知名度が高い写真家だった。

昭和初期のカメラの技術的な黎明期から、日本のカメラやフィルム業界が世界を席巻するまでの発展期を生きたとも言える。出身は山形県だが、奈良とはお寺や仏像の写真を通じて深いつながりがある。土門はいう、

「たった一回の室生寺(むろうじ)行が、僕に一大決心をなさしめた。日本中の仏像という仏像を撮れば、日本の歴史も、文化も、そして日本人をも理解できると考えたのである。」

そして、土門は報道写真を撮る一方で、古寺や仏像の写真集を数多く残すこととなる。現代のようにTVのドキュメンタリー番組やデジタル写真技術が未だ存在せず、WEB媒体やSNSがない時代に、その魅力を世の中に広く伝えた。リアリズムを追求する報道写真家が捉えた仏像は魅力的だった。

かくいう私も土門の写真集『古寺巡礼』に深く感銘を受けた一人である。土門は数多くの古寺や仏像を撮影したが、その中でも最初に訪れた、奈良県東部、三重県との県境に近い山奥にある「室生寺」をこよなく愛した。

土門が最初に室生寺を訪れたのは1939年。それ以降、数え切れないほど室生寺を訪れている。1959年に発表した写真集『室生寺』は第九回毎日出版文化賞、日本写真協会功労賞などを受賞。報道写真には無かった芸術性が高く評価された。

土門は生涯に3度脳出血で倒れたが、2度目が1968年で以降は車椅子生活となる。それでも1975年には個展「室生寺」を開いた。1978年には室生寺への訪問40年目にして、初めて雪の室生寺を撮影した。弟子たちに車椅子を担がれての撮影だった。

この撮影をもとに写真集『女人高野室生寺』を出版。しかし土門はこの年3度目の脳出血に倒れ、以降死亡するまで昏睡状態を続けたのである。

土門拳(著)「土門拳の古寺巡礼」(クレヴィス)

別名「女人高野」。女人禁制の時代の受け皿に

室生寺の創建は宝亀年間(770~781年)と平安遷都よりも古い。山深い地にあることから、永らく奈良の興福寺別院として山林修行や学問道場としての性格を持っていたと考えられている。

転機は江戸時代の元禄年間。興福寺から護国寺の末寺の真言寺院となり、徳川綱吉生母の桂昌院から2千両の寄進を受け堂塔の修理をしたことに始まる。当時、真言宗高野山総本山の金剛峯寺は女人禁制。室生寺は女人参拝の受け皿として「女人高野」と呼ばれ、その名を広く知らしめることになった。

室生寺のご本尊を祀る金堂(こんどう)

偶然なのかどうか、この寺は非常に女性的である。法隆寺に次いで二番目に古い五重塔があるが、これは日本で最小。その色使いも優しく勇壮というよりは優美である。女人高野と聞けば、この五重塔を思い起こす人は多いだろう。

「春夏秋冬のうち、いつの室生寺が一番美しいと思いますか?」
1946年、まだ室生寺に通い始めて間が無い頃、土門は当時の住職荒木良仙老師にたずねた。

「梅の室生寺、桜の室生寺、青葉の室生寺、紅葉の室生寺、冬枯れの室生寺、みなそれぞれに美しいが、強いて私の好みをいえば、全山たる雪の室生寺が第一等であると思う。ただ残念なことは、雪が降った時は、(山奥過ぎて)お寺を訪ねる者が一人もいない」(引用:土門拳「愛蔵版1古寺巡礼」小学館、1998年、p282)

それを聞いた土門は門前の旅館に泊まり込んで雪の降る日を待った。待つこと数日。それが、土門が撮った室生寺の最後の写真になった。

私が土門の写真に魅せられ、初めて室生寺に来たのは半世紀も前の中学生の頃。白黒フィルムを装填したペンタックスと一緒だった。これは父親から譲り受けたもので、父の時代ですら古いものであった。それからブランクはあったが、最近は3年に一度は訪れて、毎回似たアングルの似たような写真を撮りつづけている。

ちなみに土門が好きな室生寺は、蝉しぐれの降るような青葉の室生寺で、私も同意である。この季節は花もなく、暑くて寺を訪れる人も少ないので、静かなたたずまいの室生寺を見ることができる。この寺は奥の院まで階段が700段もあるほど広いが、境内は質素にこじんまりまとまっており、どんなレンズでも不思議と写真が上手く撮れる。スマホでも、誰にでもだ。素材が良いのだ。私は室生寺をフォトジェニックな寺と呼んでいる。

日本で最小。女性的な室生寺の五重塔

奈良のおすすめ観光スポット&グルメ

室生寺のエリアは山奥ではあるが、近畿日本鉄道の電車とバスで訪れることができる。首都圏を朝に出れば、名古屋から近鉄特急、各駅停車、バスを乗り継いで昼前には室生寺に入れる。室生寺訪問の後は、駅で2つ奈良寄りの長谷寺を訪ねる人が多い。どちらも花が美しい寺であるが、少々歩くことになる。足回りはトレッキングをするつもりで準備をすることをおすすめする。

室生寺の門前に店は多くない。土門が雪待ちで泊まった「橋本屋」で山菜やとろろ料理のランチをするのがよいだろう。一方、長谷寺は門前町が充実している。

奈良市街に泊まるとして、今回夕食を取ったのは、すき焼きレストラン「きつね」。ここは東京のミシュラン・レストラン「sio」のオーナーシェフ鳥羽周作氏がすき焼きをアップデートしたという。これまでのすき焼き屋とは違い、客への提供の仕方も含めて、完成度が高い料理になっていると感じた。

「きつね」のデザート、アイス最中

この店は地元中川政吉商店が経営する「鹿猿狐(しかさるきつね)ビルヂング」内にある。この一帯は「ならまち」と呼ばれ、世界遺産である元興寺の旧境内を中心とする古くからの繁華街である。鹿猿狐ビルはその雰囲気にマッチするように設計されている。

ならまちは江戸時代末期から明治時代にかけての町家の面影を今に伝えており、その中にモダンなレストランやバーがある。シャッターチャンスが多い街である。

シャッターチャンスの多い「ならまち」の路地

ショットバーでは「ランプバー」がある。写真はジンフィズ。良いバーはありきたりなカクテルの佇まいが美しい。ならまちは広いので、食事の選択は多様。事前に良く調べておくことをお奨めする。

ありきたりな佇まいが美しい「ランプバー」のジンフィズ