初代日銀副総裁は、海外で実力をつけた「賊軍」の武士

思わずドヤりたくなる! 歴史の小噺/ 板谷 敏彦

47都道府県、「この県といえばこれ!」というとっておきの歴史の小噺をご紹介する連載です。作者は、証券会社出身の作家・板谷敏彦さん。大の旅行好きで、世界中の主な証券取引所、また日本のほとんどすべての地銀を訪問したこともあるそうです。

第27回は宮城県。伊達政宗が築いた仙台藩。明治維新では新政府の敵となってしまいます。そんな仙台藩出身にもかかわらず、勝海舟や森有礼らに能力を高く買われ、金融のエキスパートとなった武士がいたのだそう。その後、日銀の創業期を支えたその人物とは。
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「広い平野」と「穏やかな気候」で東北最大人口の仙台市

宮城県は西に奥羽山脈が南北に走っている。東を見れば、岩手県側からは北上山地が海に落ち込み複雑なリアス海岸を形成し、それに沿うように北上川が南下。福島県側からは阿武隈山地とそれに沿う阿武隈川が北上している。

この2つの河川に加えて、奥羽山脈を源とする鳴瀬川、名取川による土砂が堆積し、東北最大の面積を持つ仙台平野が形成される。

平野が広がる県東部の気候は典型的な太平洋側の特性を持ち、東北地方の中では穏やかな気候に恵まれている。

2022年1月の仙台市の推計人口は109万6623人。広い平野と穏やかな気候は周辺地域からも人を引き寄せて東北地方最大の人口を誇る。プロ野球チーム、楽天イーグルスも誘致され活気のある都市が形成されている。

周辺の河川が東北最大の仙台平野を形成した

※この地図はスーパー地形アプリを使用して作成しています。

明治政府に人材を輩出できなかった賊軍・仙台藩

仙台藩といえば伊達政宗が立藩した。政宗は全国から歴史好きを仙台に惹きつける魅力的な武将であり、また観光資源でもある。藩の表高(おもてだか。大名や旗本が将軍によって与えられた所領の額面上の石高のこと)62万石は加賀、薩摩に次いで全国3位の大きさだった。

ところが明治維新では、仙台藩は新政府に対抗する奥羽越列藩同盟の中核になった。そのため戊辰戦争敗戦後には、朝敵として62万石の領地は28万石に減らされてしまう。教育熱心な藩だったにもかかわらず、明治初期に中央に人材を輩出できなかったのはこのためである。

今回はそうした明治維新後の薩長土肥閥が全盛だった官僚の世界で、賊軍とされた仙台藩出身者ながら第2代日銀総裁にまで出世した富田鉄之助(とみた てつのすけ。1835~1916年)を紹介したい。

勝海舟の弟子になって海外で学び、金融のエキスパートとなった高級武士

富田は二千石の仙台藩家老格の4男として生まれた。いわゆる坊ちゃんである。若い頃から勉学に優れ、21歳で江戸へ出て砲術を学び、一時帰郷するものの、再び江戸へ出て勝海舟の弟子となった。32歳の時(1867年)には仙台藩籍のまま、勝の嫡男・勝子鹿(かつ ころく)を連れて米国留学に旅立った。

この時仙台藩足軽として富田のお供をしたのが、後に首相になる若き日の高橋是清である。サンフランシスコに着くと富田は東海岸へ向かったが、足軽の高橋は藩から費用が出ず旅費代を賄うために西海岸に残って年季奉公をさせられた。これが後に高橋が若い頃アメリカで奴隷に売られたというエピソードになった。

ところが東海岸に到着してすぐに戊辰戦争が始まったので、富田は急ぎ帰国する。しかし、勝から今は日本の将来のために米国で勉強するように諭され、戻った。こうして富田は米国で商法や会計学を学んでいるなかで、江戸幕府の瓦解、すなわち仙台藩の瓦解と明治維新(1868年)を迎えたのである。

その後、富田は新政府の公使として米国に派遣されてきた薩摩閥の要人・森有礼(もり ありのり)に語学力を認められ、現地で外交官に採用された。また日本に一度帰国後は一等書記官となって再び森とともに英国に赴任した。

この時代、世界金融の中心地であるロンドンで、特に金融や経済を専門に学んだ。このため富田は当時の日本では数少ない金融のエキスパートになったのである。

1881年に帰国すると、薩摩閥の大蔵卿・松方正義(まつかた まさよし)に金融の知識を買われて、外務省から大蔵省に移籍。日本銀行設立委員4人のうちの1人となる。

富田は高級武士出身者として教養もプライドもあった。また年齢も若くない。ゆえに、役所で賊軍出身ということで軽んじられることに随分といやな思いもしたようだ。だが、閥を気にせず見出してくれた恩人の森に諭されるままに耐え忍んだ。

日銀の初代副総裁として実務を取り仕切る

明治15(1882)年6月に日本初の中央銀行である日本銀行条例が公布され、同年10月10日に永代橋のたもとで日本銀行は営業を開始した。

この時富田は既に47歳。初代総裁には富田よりも10歳若い薩摩出身の吉原重俊(よしはら しげとし)が抜擢され、富田は副総裁に任じられた。

しかし、開業当初、吉原総裁は病弱で休みがちで、実際の業務のほとんどは副総裁の富田が仕切ったと伝えられている。

吉原総裁は若いが優秀だった。薩長閥が全盛の中、孤立無援の富田をかばっていたが、明治20(1887)年末にとうとう病死してしまう。後継の総裁には誰が見ても賊軍出身ながら富田が適任だった。かくして余人をもって替え難し、ということで第2代日銀総裁に就任したのである。

日銀総裁に就任して1年半、富田は大蔵卿の松方正義と日銀の運営方針を巡って対立した。松方は日銀に横浜正金銀行への融資を迫るが、富田は中央銀行の独立を主張して一歩も譲らない。

松方は日銀の重役会にまで出張って直接富田に融資を迫ると、東北の武士らしい生真面目で硬骨漢の富田は、自ら辞職を選択した。こうして富田の日銀総裁就任期間はわずか1年半と短くなってしまったのである。

総裁就任期間は短いものの、富田は日銀の独立を政府から守り、日銀券の発行業務、公定歩合の操作など、日銀の実務をゼロから確立した。日銀出身で日本銀行史に詳しいエコノミストの吉野俊彦氏は、日銀のスタート時期を支えた総裁として、富田を歴代総裁の中でも「もっとも出色の人物」と非常に高く評価している。

なお、日銀総裁の辞任にあたって富田は、辞任は決して私的な恨みではない証として、松方に掛け軸を送っている。これに対し、松方も相模国・貞宗(さだむね)の銘刀一振りを返してよこした。国家のための仕事に私的な問題を持ち込まない「君子の交わり」の証である。

後に総理大臣になった松方は、首都東京府知事に富田を指名した。それまで神奈川県だった三多摩地区を東京都に編入したのは富田である。また一橋大学の創立にも尽力。大学構内には、偉人としてレリーフが設置されている。

自身は明治維新の賊軍出身。周囲は薩摩閥ばかりの逆境の中で、媚びずへつらわず実力を養い、己(おのれ)の信念を貫き通した富田。その生き様は、古き良き質実剛健な伊達武者の姿を彷彿とさせる。

日銀初代副総裁、2代目総裁となった富田鉄之助(一橋大学機関リポジトリHERMES-IR画像提供)

宮城のおすすめ観光スポット&グルメ

仙台市博物館
仙台には良い博物館がある。青葉山城(仙台城)址三の丸跡にある同館は人文科学系に特化した博物館で、伊達氏関連や慶長遣欧使節、街の歴史に関連するものが充実している。但し令和6年4月まで改築休業中である。

宮城県立東北歴史博物館
JR国府多賀城駅の駅前にある。多賀城は奈良時代から平安時代に陸奥国府や鎮守府が置かれた場所で、11世紀中頃までの東北地方の政治・軍事・文化の中心地であった。仙台と仙台藩の成り立ちが縄文時代から現代まで詳細にわかりやすく展示されている。お奨めである。

仙台と仙台藩の成り立ちが展示されている

ニッカウィスキー宮城峡蒸留所
NHK朝ドラ「マッサン」でお馴染みのニッカウヰスキー・竹鶴政孝は、北海道余市で蒸留所を始めた。その後伸びるウイスキー需要に対して、原酒の増産と品質多様化の必要性から、余市とは環境が異なる宮城峡に2つ目の蒸留所を建てた。

ここはふたつの清流とおだやかな気候が、ウイスキー作りに理想的な環境である。蒸留所は予約して見学することができるので是非訪ねたい。場所は名取川の上流、広瀬川の奥にある。試飲を楽しめるようバスで行くならば、河岸段丘を登り高度を上げていく左側の車窓風景が素晴らしい。

蒸留所は予約をすれば見学できる

国分町
居酒屋「一心」
国分町は仙台の夜の街。ここでの狙い目は高級割烹というよりは居酒屋である。手頃で美味しい店が数多くある。仙台は牡蠣、アワビ、ウニ、穴子など三陸の新鮮な食材に恵まれている。また仙台平野は米どころでもある。奥羽山脈、北上山地、阿武隈山地を源とする仕込み水にも恵まれて、個性豊かな清酒が揃っている。

私が訪問したのは「一心」、全国を回った居酒屋探訪家の太田和彦氏によれば、西の横綱が福岡の「さきと」(編集部註:閉業)であれば、東の横綱は仙台の「一心」なのだそうだ。確かに料理は超高品質にもかかわらず価格の方は高めの居酒屋レベルだった。

三陸の新鮮なウニ(上)、アワビ(下)など食材が楽しめる

「バー・アルカンシェル」
国分町には技術レベルの高いオーセンティックなショット・バーが数多くある。その中でもお奨めは「アルカンシェル」。銀座の「毛利バー」で修行した石垣さんは、ストイックな職人肌。少しとっつきにくいかもしれないが、そういうバーこそが良いのだ。おつまみのナッツ類やオレンジピールなどまで厳選されている。

職人肌のマスターが作る「ジン・リッキー」