夫婦の会話は英語!? 鹿鳴館外交で活躍した「賊軍」の子女

思わずドヤりたくなる! 歴史の小噺/ 板谷 敏彦

47都道府県、「この県といえばこれ!」というとっておきの歴史の小噺をご紹介する連載です。作者は、証券会社出身の作家・板谷敏彦さん。大の旅行好きで、世界中の主な証券取引所、また日本のほとんどすべての地銀を訪問したこともあるそうです。

第29回は福島県。会津藩は徳川家との関係が深かったため、戊辰戦争では新政府から賊軍のシンボルとされてしまいます。そんな逆境の中、日本人初の女子留学生となって国際教養を高め、鹿鳴館で活躍した女性がいました。数奇な運命はドラマのようです。
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3つの山脈で浜通り、中通り、会津地方に分かれる福島県

福島県は東から阿武隈山地、奥羽山脈、越後山脈によって3つのエリアに分けられる。浜通り、中通り、そして会津地方である。

太平洋に面した浜通りにはJR常磐線が通っている。東日本大震災の福島第1原発問題の影響でしばらく不通となっていたが、2020年に全線開通し、現在は東京―仙台直通の特急列車が運行されている。沿線にあるいわき市の常磐炭鉱跡に作られたスパリゾートハワイアンズは全国的に有名だ。

中通りは阿武隈川沿いにいくつかの小盆地があり、郡山、二本松、福島などの都市を東北新幹線がつなぐ。車窓から西に見える大きな山は安達太良山である。奥羽山脈に沿って温泉が多いのは、福島県沖の日本海溝から下に潜った太平洋プレートが、地中の摩擦熱によってマグマを形成する位置にあたるからだ。東日本大震災の原因もこの地殻運動の一部だった。

奥羽山脈を越えた会津地方は、明治維新の際の戊辰戦争で有名である。中通りの郡山とともに古くから西の越後(新潟)との経済的な結びつきも強く、会津若松市には新潟県が地盤の第四北越銀行の立派な支店が設置されている。

今回はこの特徴的な3つの地域の中で、会津地方に注目したいと思う。

戊辰戦争で有名な会津地方

※この地図はスーパー地形アプリを使用して作成しています。

「徳川家の御家門」から「賊軍のシンボル」となった会津藩

会津藩の藩祖・保科正之は第3代将軍家光の異母弟である。幕府での家格は親藩・御家門で、松平姓と「葵のご紋」の使用を許されるほど徳川家との関係は深い。

そのため幕末の動乱期には、京都守護職として幕府軍の主力となって戊辰戦争を戦った。京都では新撰組の庇護者となり、多くの薩長勤王浪士を殺害したため、後に新政府からの恨みを残すことになる。

さらに各藩が幕府不利と察して寝返ったり曖昧な態度を取る中でもその姿勢は変わらず、会津藩は一徹な生真面目さが禍して賊軍となってしまう。

薩長土肥を主力とする官軍は、会津藩を抵抗する朝敵である「賊軍のシンボル」として徹底的に叩き潰すことにした。それが会津若松城下の戦い、会津戦争である。

1868年8月23日、土佐・薩摩の官軍は若松城(鶴ヶ城)下に突入、会津藩は籠城して約1ヵ月を戦い抜き9月22日になってようやく降伏したのである。

籠城の様子は大河ドラマ『八重の桜』でご存じの読者も多いだろう。また土方歳三も新撰組残党を率いて戦ったので、新撰組ファンにもよく知られた史実である。

この籠城戦の中、幼い少女たちも家族と一緒に戦った。その中の一人がのちに数奇な運命をたどる、山川捨松(やまかわすてまつ)である。

会津藩が1ヵ月籠城した鶴ヶ城

賊軍出身だからこそ掴んだ「日本初の女子留学生」

山川捨松は会津藩家老の末娘で、幼名を咲子といった。

1860年、長兄の山川浩は、父の死去により16歳の若さで会津藩家老となった。姉には後に女子高等師範学校(現お茶の水女子大)舎監となる山川二葉、兄には健次郎などがいた。

1868年、浩は籠城戦総指揮官として会津戦争を戦う。この時、山川の家族は皆城に籠って一緒に戦った。浩の妻トセは砲撃により爆死。健次郎は白虎隊として戦い、まだ幼かった咲子も敵の砲撃で負傷した。

戦後の会津藩は懲罰として貧しい下北半島(青森県北東部に位置する本州の最北端部の半島)へと転封(編集部注:領地を別の場所に移すこと)を命じられた。浩は大参事(副知事)として、移住した会津藩の人々の面倒を見なければならなかった。

下北の地は痩せており、生活は困窮し餓死者が出るような有様だった。食べていくために仕方なく、健次郎は長州藩士・奥平謙輔に預けられ、咲子は函館に里子に出された。山川家は身分の高い武士階級であったが、バラバラになってしまう。

函館に里子に出された咲子は親と離別して過酷な日々を過ごしながらも、12歳の時に海外留学のチャンスをつかむ。チャンスといっても、当時外国へ行こうという女子の候補者はそもそも集まらなかったのだが、賊軍の会津出身者は何でもチャレンジする必要があった。

咲子は日本で最初の女子留学生として、津田梅子らとともに米国東海岸へと留学した。このとき、母は咲子の名前を「捨てられたつもりで頑張って来い」という思いを込めて、捨松と改名させた。

捨松は勉強に励んだ。女優メリル・ストリープも卒業した米国東部の名門女子大ヴァッサー大学を首席で卒業し、卒業生代表まで務めたのである。ヴァッサーは男子のアイビーリーグに対して女子の名門大学セブンシスターズの一校である。米国社会は1990年代頃からジェンダー問題に真剣に取り組むようになり、名門女子大は軒並共学になった。ヴァッサーも今では共学である。

捨松は今でもヴァッサー大学WEBの卒業有名人にリストされている。

兄の健次郎も捨松と一緒に米国へ留学し、エール大学で物理の学位を取得。1901年に東京帝国大学(東京大学の前身)の総長にまで登りつめる。賊軍会津出身者が帝国大学の総長に就任した時、会津の人の喜びはひとしおであったという。

世界トップクラスの教養を鹿鳴館外交で活かす

捨松は帰国後、幼い頃からの長い留学生活で日本語が上手く使えなくなっていた。教養レベルで言えば世界トップクラスだが、それに見合うポジションが日本には未だなかった。そうこうしているうちに陸軍中将で薩摩出身の大山巌(おおやまいわお)が捨松を嫁に欲しいという。大山は西郷隆盛の従兄弟である。

大山は前妻が病死してしまい、子どもが3人残された。そのため、義父の吉井友実が責任を感じて後妻探しを引き受けたのである。洋行帰りで知的な捨松は、残された子たちの教育にもよかろうと吉井のお眼鏡にかなった。大山も捨松の西洋人のように洗練された容姿に惹かれた。

しかし、当時の大山巌は陸軍の最高位。捨松の兄・浩も陸軍内で身分は高くなってはいたが、大山の部下である。薩摩と言えば会津戦争での憎き敵。さらに、浩は落ちぶれた会津人が頼ってくれば必ず面倒を見るーーそのため収入は多いくせにいつも貧乏だったーーそういう会津武士らしい男だった。そんな浩が、薩摩出身の上司に妹を嫁がせて媚びを売るようなみっともない真似など、絶対にできるわけがない。

「会津の山川家は逆臣(戊辰戦争で官軍の敵となった)ですから、お断りいたします」

断固として拒絶する兄の浩に対して、大山に説得を頼まれた西郷従道は何度も通い、

「私だって逆臣(西郷隆盛)の弟です、あなたと同じじゃありませんか」

と言ったそうで、さすがの浩もとうとう受けざるを得なくなったらしい。

最初、大山巌と捨松の2人はお互いの会津弁、薩摩弁が理解できなかったが、英語で話したところ、やっと話しが通じたのだという。馴れない日本の生活に窮屈さを感じていた捨松は、スイス留学の経験がある大山の何事にも合理的な考え方に惹かれていく。やがて2人は気持ちが通い、恋に落ちて仲睦まじい夫婦になったという。結婚式は完成したての鹿鳴館だった。国際人の捨松は鹿鳴館外交で活躍し、大山夫人として慈善活動や女子教育に大きく貢献するのである。

筆者は短い文章で淡々と書いてしまったが、当時の留学の苦労は相当なものだった。

参考図書として、『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松―日本初の女子留学生 』(久野明子氏:中公文庫)がある。久野氏は捨松のひ孫である。興味のある方は是非読んで欲しい。

西洋の教養を身に着け鹿鳴館で活躍した捨松(出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)

「会津海軍」という言葉がある。福島県の山の中に位置する会津で海軍とは変な話だが、海軍提督(将官以上)には会津出身者が多かった。海軍兵学校は学問も学べて給料も出たから、経済的に恵まれない優秀な若者が集まったのである。賊軍として下北半島の地で悲惨な目にあった会津藩からは多くの若者が海軍を目指し、その結果多くの提督が生まれ、会津海軍と呼ばれたのだった。

その他にも外交官の赤羽四郎、また義和団事件において列強の軍を統率して北京での籠城に耐え抜いた柴五郎など、明治初期の会津は実に数多くの偉人を輩出したのである。

福島のおすすめ観光スポット&グルメ

会津観光といえば何と行っても鶴ヶ城(会津若松城)だ。会津戦争の際の砲撃で天守閣は徹底的に破壊されたが、1965年にコンクリートによって若松城天守閣郷土博物館として復元された。コンクリート造りによる不自然さはなく、美しい城である。天守閣からは会津盆地を一望することができる。

会津若松市内には「まちなか周遊バス」という観光バスが走っており、中心街で古い町並みが残された七日町通り、県立博物館も近い鶴ヶ城、白虎隊で有名な飯盛山(いいもりやま)など主な観光地をつないでいる。バスルートを中心に観光コースを組み立てると良いだろう。

飯盛山にある栄螺(さざえ)堂

山川捨松の印象が強かったせいかもしれないが、筆者には会津では行く場所行く場所で女性の活躍が目についた。

居酒屋「鳥益」は女性によって運営されていた印象がある。炭焼きの焼き加減は絶妙で、漬物なども含めて注文した全てのメニューが美味しかった。会津の地酒も揃っていて、店の人に尋ねれば何でも教えてくれる。

居酒屋『鳥益』(上)と店内の招き猫(下)

オーセンティックなバーとしては、『GINZA BAR保志 会津』がある。

会津若松の出身で、国際的に著名なバーテンダー保志雄一が、トップクラスの技術を故郷に還元すべく地元に店を開いた。

静かな会津の夜の街で銀座クオリティのカクテルが飲める。雪でも降れば、思いに耽るには最高のシチュエーションになるかもしれない。

国際的バーテンダーのつくるジンリッキー