金融の歴史をひも解く新連載がスタートします。私たちの生活と切っても切り離せない金融の歴史を学ぶことは、21世紀の私たちに生きるヒントを与えてくれます。
第1回は、私たちが生きる上で欠かせない「お金」の歴史です。金貨などの硬貨からはじまり、次第に紙幣が使われるようになったお金は、西洋と中国では生い立ちが異なります。いつ、どこではじまり、流通したのでしょうかーー。「お金」の歴史を学ぶと当時の東西の統治の違いまで見えてきます。
「原始時代に石のお金があった」は間違い
原始時代には大きな石のコインがあって、それを使って色々な物が売買されていた――と思っている人は意外に多いものです。とある有名な経済学者でも、重くて運ぶのが大変だったと、何かの例えでそんな話をしている人もいたぐらいです。
それはきっと、昔「原始家族フリントストーン」というアメリカの石器時代の家族のコメディ・アニメがあったので、そのイメージが頭の片隅に残っているからなのかもしれません。ちなみにフリントストーン・ファミリーは石でできた自動車も持っていましたが、そっちを信じている人はいないでしょう。貨幣はコイン1枚のシンプルな構造だから、大昔からあったと誤解されやすい。人類が貨幣を手にするのはもっと後、つまりもっと最近の話になります。
貨幣の登場は「酒」「文字」「利息」よりも後
ちょっと人類の歴史を振り返っておきましょう。最新の宇宙物理学の知見によると、今から138億年前、我々が生きている宇宙はビッグバンではじまり、今現在も拡大を続けていると考えられています。銀河系は136億年、地球や太陽系が誕生したのが46億年前で、およそ1億年~7千万年前に地球上に最初の霊長類が出現しました。
人類のご先祖が石を使うようになったのが200万年前、火を使うようになったのが50万年前、フランスのラスコー洞窟など人類最初の壁画が描かれたのが3万年前。お酒は1万4000年前に蜂蜜のお酒(ミード)が最初にできて、ワインは諸説ありますが8000年前のコーカサス地方、現在のジョージア国付近で誕生したという説が有力です。
文字の出現は、6000年前のメソポタミア文明の楔(くさび)形文字だと考えられており、5000年前の文献にはすでにビールのレシピも見られます。メソポタミアでは銀と麦が重さをベースに貨幣代わりに使われて、居酒屋でのビールの代金や、つけの返し方やその際の利息まで決められていました。しかし現代のようなお店でのやりとりを想像してはいけません。発掘される当時の遺跡に市を開けるような広場の痕跡は見当たらず、人々が集まって取引を行うような市場はまだなかったと考えられています。役所(居酒屋)でビールを買っているような感覚だと思います。
人々の興味は「交換機能」から「保存機能」へ
あくまで西洋史の中の話ですが、貨幣の登場は約2700年前のリディア王国が定説です。ここでエレクトロン貨という金銀自然合金のコインが発明され、当時の支配者が貨幣として流通させました。
貨幣と呼ばれるには3つの機能が必要です。
金貨や銀貨であれば、変質しないので希少金属としての価値の保存が可能です。米や麦などの穀物も貨幣代わりに使われましたが、これらは時間の経過とともに品質が劣化してしまいます。
物々交換はお互いのニーズがマッチしないと成立しませんが、貨幣であれば値段がつけられる物やサービスならば何とでも誰とでも交換が可能です。品物を売ってとりあえず貨幣にしておく。保存機能を使ってしばらくおいておけばよいのです。
貨幣は物やサービスの価値を計れなければなりません。それは物でもたとえ人の労働であっても同じです。世の中には「お金がすべてじゃない」とプライスレスなサービスを協調するCMもありますが、そのCMにはその効果が金額で計測され対価が支払われています。
古代ギリシャの哲学者アリストテレス(前384~前322年)はその著書『政治学』のなかで、「貨幣は当初、物々交換を容易にする単純な売買の手段であったが、次第に金儲けの技術が発達し、貨幣を貯めることそのものが目的化した」と書いています。貨幣が発明されて間もない頃から、すでに人々の金銭欲を創出し、富の蓄積と関係する保存機能に興味が集中していたようです。
西洋が金貨の時代、なぜ中国では紙幣が通用したのか
ギリシャ、ローマ時代には金銀銅など希少金属によるコインが普及し、市場が形成され、金貸しが登場して借金の担保に不動産が取りあげられたりしていました。市民の物の売買が活発になるにしたがい、現在のショッピング・モールのような様々な種類の店が入った建物まで登場することになります。
ローマ時代の貨幣は現在でも多く残っていて、骨董品としてコイン収集家の間で取引されています。それぐらいたくさん発行されたのです。
一方で中国では、リディア王国のエレクトロン貨より少し前に青銅製の貨幣がすでに造られていました。我々が使っている10円玉が青銅製です。金銀と同じように錆びず保存機能はありますが、金属そのものにはほとんど価値はありません。
エレクトロン貨など西洋のコインは金や銀の同じ重さの塊をいくつも造って、刻印のあるハンマーでドンと叩いてコインにする。するとコインを受け取った方は、発行者の政府が滅んでもコインを溶かせば金銀の価値は保証されますし、国が違っても金属の価値は残ります。こういう金属の質と質量で価値が決まるコインを実物貨幣と呼びます。
一方で中国の青銅銭は粘土で造った鋳型に溶けた青銅を流し込んで造られました。溶かすと希少価値の低い青銅の塊でしかなくなってしまうのです。
中国は広い領土を持つ帝国であり、強い中央集権国家がコインの価値を保証していたのだと思います。素材ではなくて発行者の権威が価値の尺度を支えていました。皇帝などの権威がこれは100円であると保証するから100円なのです。こうしたコインを実物貨幣に対して名目貨幣と呼びます。現在の紙のお札もそうですね。
実物貨幣……金銀など素材そのものに価値があるので取引に利用されている貨幣
13世紀に、フビライ・ハーンを訪ねてシルクロードを通って元の国へと旅をしたイタリアの商人マルコポーロは、大都(現北京)で紙幣が流通しているのを見て驚きました。またその少し後に中国を旅したイスラム世界の旅行家イブン・バットゥータは、市場では金貨や銀貨を出しても誰も受け取ってくれず、両替商で紙幣と交換しなければならなかったと言っています。中国は元の前の宋代に商業が発達し、為替手形が普及して、やがてこれが貨幣代わりに使われたのが紙幣のはじまりだと考えられています。
欧州でも、15世紀頃から英国と地中海などの間に長距離の交易が行われるようになると、為替が発達します。が、なかなか紙幣にまで至らなかったのは、国が細かく分かれていて、通貨単位が別々だったからなのかもしれません。発行した国がなくなっても困るし、金や銀の重量で決済した方が確実だったのでしょう。
西洋の紙幣のはじまりとして引用される「ゴールド・スミス銀行説」では、英国の金の保管・加工を行う金匠(ゴールド・スミス)が金を預かる時の「預かり証」が貨幣代わりに使われ紙幣になったと漠然と言われます。しかし、英国がいつでも金貨と兌換(交換)できる紙幣を発行する「金本位制」を正式に採用したのは1816年のこと。これが、いわばきちんとした紙幣のはじまりと言えるでしょう。
明治時代に急激な円安が進んだ理由
1871年(明治4年)、日本は新貨条例を発布して1ドルを1円と定めます。しかし、ドルは金の価値を基準をにしていた一方で、日本円は銀を基準(実質的に銀本位制)にしていたために、1897年に日本が金本位制に移行しようとした時には1ドルは2円となってしまいました。なぜならこの間に銀の価値は金と比較して約半分になっていたからです。
しかし、金本位制を切望する日本政府は、この当初の半分になった為替レートで金本位制に移行します。
次回は、日本が「金本位制」を切望した理由と、「金本位制」について歴史をひも解きます。戦争、貿易、世界の経済発展など、さまざまな物事に影響を与えた「金本位制」。金融の歴史を通じて近代史を俯瞰しましょう。