47都道府県、「この県といえばこれ!」というとっておきの歴史の小噺をご紹介する連載です。作者は、証券会社出身の作家・板谷敏彦さん。大の旅行好きで、世界中の主な証券取引所、また日本のほとんどすべての地銀を訪問したこともあるそうです。
第31回は沖縄県。かつて存在した琉球王国。その琉球王国の歴史では反逆者として描かれているものの、地元では英雄とされている地方のリーダーがいた。勝者の歴史に残る印象とは違う、彼の姿とは。
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現在の沖縄3地域につながる、戦国時代の「三山」
沖縄本島の地質は座喜味(ざきみ)城跡がある読谷(よみたん)村を境に南北で大きく異なっている。北はもともと大陸から分離した約1億4000万年から4000万年前ほどの古い地質で、「やんばる(山原)」と呼ばれる山地がある。
やんばる全体が山でおおわれているため、人口は希薄である。それに対して南は約500万年前からこの場所で堆積した新しい地質で、標高が低い台地や低地に都市が形成されている。
沖縄県の人口は146万8634人(2022年10月現在)で全国都道府県ランキングでは25位だが、人口密度は643人/㎢と全国8位。県民の平均年齢は43.5歳と全国平均よりも4歳以上若く、全国1位である。
沖縄には、14世紀前半から1429年(正長2年)にかけて三山(さんざん)時代という北山、中山、南山の3つの国が拮抗した戦国時代があった。その時の区分は、現代の北部・中部・南部の3つの広域市町村圏とほぼ一致している。
沖縄での観光を計画する時には、この違いを知っておくと役に立つ。県庁所在地の那覇市は本島の南寄りの中山にあり、沖縄戦の戦跡などは人口が多かった南山にある。一方でビーチリゾートなどは山がちで自然に恵まれた北山に多い。
そんな沖縄には明治時代前まで琉球王国があった。学校で学ぶ機会がほぼない琉球王国の歴史を今回は紹介したい。観光の際に参考になるはずだ。
※この地図はスーパー地形アプリを使用して作成しています。
地方リーダー「按司(あじ)」による戦国時代
沖縄では約7000年前から貝塚時代(編集部注:沖縄諸島を中心とする時代区分の一つ)が始まった。米作りは本土と比べてずいぶん遅く、8世紀から10世紀ごろ始まったと考えられている。気候が温暖で海産物が豊富だったために農耕が始まるのが遅れたのだ。
11世紀に民間ベースの日宋貿易が盛んになり、物産を求めて本土から人が移住してくるようになってようやく米作りが本格化した。
12世紀に入って農業集落が生まれると、やがて集落のリーダーが生まれる。沖縄ではこうした地方豪族のような人を「按司(あじ)」と呼んだ。
按司はグスクと呼ばれる城砦を拠点に領土の拡張を計って、当初は小さな単位で抗争を繰り広げた。
こうした動きが北山、中山、南山に集約されていく。それぞれ中央集権的な国ではなく、いくつかの勢力の集合体で、経済共同体という連帯感をもつ政治的な3つの地域となっていた。
1368年に明が元を北へと追いやって中国を統一し、明朝が誕生した。するとその4年後の1372年に明の使者が朝貢貿易の誘いに沖縄にやってくる。貢物を届ければ冊封(支配下の者と認定)してあげるというのだ。明に朝貢の物資を定期的に捧げれば、それに対するお土産の宝物は山ほどもらえた。
朝貢貿易は儲かるので、三山はそれぞれが明の冊封国となり、三山時代が続いた。
一人の按司が3つの地域を統一し、琉球王国をつくる
1406年、南山の一地方、佐敷(さしき)から攻めあがった按司の尚巴志(しょうはし)が、中山を攻略。次いで1416年には北に攻め上がり今帰仁(なきじん)城の北山王を破り北山も攻略した。そして1429年に南山王を屈服させると、ついに沖縄本島全体を統一したのである。尚氏による「琉球王国」がここに登場した。
これを第一尚氏王朝とよぶ。
尚巴志は貿易と農業振興を国策の中心に据えて首里(現那覇市)を首都として城を築き、港を整備した。貿易では遠くシャム、マラッカ、スマトラ、パレンバン、ジャワにまで船を送っている。
反逆者か英雄か? 琉球王国の歴史に残るひとりの按司
尚巴志の死後、子孫たちが王位を巡って内部抗争を繰り返していると、東海岸の勝連(かつれん)城に阿麻和利(あまわり)という按司が台頭してくる。阿麻和利は海外貿易によって勝連地域に繁栄をもたらし力を蓄えた。
六代目の王である尚泰久(しょうたいきゅう)は阿麻和利に対抗するため、尚巴志の時代からの忠臣で戦上手の護佐丸(ごさまる)を座喜味城から中城(なかぐすく)城へと移動させた。さらにそれだけでは足りないと考えたのか、娘を阿麻和利に嫁がせ、姻戚関係を結ぶことで時代を平和裏に乗り切ろうと画策した。
1458年のある晩、阿麻和利は護佐丸が謀反を企てていると王に注進。それを聞いた王は護佐丸を背後から討伐する。身に覚えのない護佐丸は急襲に敗れて自害する。
ところが阿麻和利に嫁いでいた王の娘が「これらは阿麻和利による謀略である」と王に告げる。開き直った阿麻和利は王のいる首里城に攻め込んだ。しかし、王はこれを撃退し、最後は阿麻和利を勝連城にまで追い詰めて滅ぼしたのだった。
なぜ王が忠臣だった護佐丸を滅ぼしたのか等々、この話には納得できない点が多いだろう。琉球王国時代の歴史書等において、阿麻和利は王に謀反を起こした「逆臣」と位置付けられる。
ところが一方で、16〜17世紀にかけて編纂された琉球最古の歌謡集である「おもろそうし」では阿麻和利を讃える歌が数多く残されており、とてもではないが悪い人物とは思えない。阿麻和利が拠点とした勝連城の地元では2021年に「あまわりパーク」がオープン。そこでは良い方の阿麻和利が英雄として顕彰されている。
歴史は勝者が書くものだ。視点によって異なる、いわば歴史の持つ二面性である。
七代目の尚徳(しょうとく)が若死にすると、家臣団はクーデターを起こして、王族を殺害。人望が厚かった金丸(かなまる)という高級官僚を王とした。
この金丸が尚円(しょうえん)を名乗り、1469年から第二尚氏王朝が始まる。この王朝が明治時代まで約410年続くことになる。
護佐丸や阿麻和利がいたグスク(城)を訪れてみて印象に残ったことは、青い海に空が広がり、そしていつも風が吹いていることだった。この風景に陰湿な発想はなじまない。本当は護佐丸も阿麻和利も王に騙されたのではないか。何の根拠もないがグスクの跡地でそんなことを想像していた。
琉球王国は薩摩藩と中国、二重の関係を維持
一方、日本本土では徳川家康が天下統一を果たす。家康は秀吉の朝鮮出兵によってすっかり関係が悪化した明との関係修復を望み、琉球王国に取り次いでもらおうと考えた。琉球王国が明の冊封国であったからだ。しかし秀吉の時代に兵糧米の供出を求められるなど、ひどい目にあっていた琉球はこれを拒絶。
そこで1609年に薩摩藩が3000の兵で琉球に攻め込んだ。戦国時代を経て戦争経験が豊富だった薩摩藩は鉄砲などの装備も充実していたので、10日ほどで首里城を陥落。琉球王国は藩幕体制に組み込まれたのである。
その後、薩摩藩への年貢の納入を義務づけられたものの、琉球王国政府として政策決定権や警察裁判権を保持しつづけた。琉球王国は江戸時代を通じて、中国との冊封関係と薩摩藩との二重の関係を両立させた。
江戸時代が終わると1879(明治12)年に明治政府は琉球併合を実施。琉球王国は消滅し、沖縄県が設置された。
沖縄のおすすめ観光スポット&グルメ
沖縄では琉球王国の歴史に登場したお城を巡る旅をおすすめしたい。地図上の5つ城(首里城、中城城跡、座喜味城跡、勝連城跡、今帰仁城跡)は首里城周辺の園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)石門、玉陵(たまうどぅん)、識名園、斎場御嶽(せーふぁうたき)とともに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されている。
今帰仁城の近くには沖縄美ら海水族館がある。那覇からここまでくると途中の観光も含めて車で2時間以上かかってしまうので、一泊推奨。せっかくなら水族館近くに宿をとって訪れると良い。ビーチも美しい。
清国の外交使節や薩摩藩の役人を接待した、琉球王国の宮廷料理がある。那覇市県庁前駅近くの「美榮」はそんな宮廷料理を提供する料亭である。沖縄料理研究家の系譜の店で、店内の調度品や食器なども充実している。沖縄料理は豚、芋、昆布からできているという。沖縄はB級グルメの宝庫でもあるが、ラフテーや三枚肉などの元祖はこの宮廷料理にあると思う。
また本土で沖縄そばを食べて、おいしくないと思っている人がいるとしたら、それは大間違いである。良い店に当たっていないだけなのだ。とても美味しい食べ物である。
その他にも、若い人が多いだけあって大衆食堂系のがっつり飯、生姜焼きやステーキ、カツカレーなどのB級グルメの名店は数多く、ランチは店選びに迷うほどである。また米軍基地関係者のためのレストランが一般に開放されていることがあり、本場アメリカのビックサイズなハンバーガーを食べることもできる。
ところで、沖縄にはフレアバーが多くある。フレアバーとはバーテンダーが曲芸的なパーフォーマンスでカクテルを作るバーである。トム・クルーズ主演の映画「カクテル」で日本でも一躍有名になった。
おすすめは那覇市久茂地2丁目の「Bar ハンモック」。オーナーはバーテンダー協会の沖縄支部長でもある。アメリカ・ニュージャージーの下町にでもありそうなバーである。
沖縄でのおすすめの酒はラムである。原田マハ著「風のマジム」は派遣社員の女性が奮起してラム製造会社の社長になる小説だ。そのモデルになったラムが「コルコル」。沖縄の風と花の香りがするサトウキビのお酒だ。