金融の歴史をひも解く本連載。私たちの生活と切っても切り離せない金融の歴史を学ぶことは、21世紀の私たちに生きるヒントを与えてくれます。
第4回は、19世紀後半に使われていた「石貨(石のお金)」の話です。不思議な価値基準を持つ「石貨」には、20世紀前半にニューヨーク連邦準備銀行で預かっていた「金」、そして現代の「暗号資産」に通ずる共通項がありました。「お金」であるための条件とは何なのかーーその核心に迫ります。
第3回「1ドル=360円が、今の変動相場制になったワケ」を読む
道端に「お金」が置かれるヤップ島
第1話で原始時代に大きな石の貨幣はなかったと書きましたが、実は19世紀後半に、大きな「石貨」は南の島で使われていました。
場所はグアム島から南西に850キロに位置する現ミクロネシア連邦のヤップ島です。当時はスペインの植民地でした。
1871年、ここに米国人のディビッド・オキーフという人が漂着しました。太平洋を横断中に遭難したのでしょう。そして彼はヤップ島で石貨が使われていることを知りました。石貨の大きさは直径30センチから3メートルまで様々です。中心には五円玉のように穴が空いており、そこに棒を通して持ち運べるようになっていました。
また不思議なことにこの貨幣を贈呈したり支払いをしたりしても相手に渡す必要はありません。石貨は村の広場や道端においてあり、所有者が変わったことだけを売り買い双方が了承すればそれでよく、その変更は島の仲間にも伝えられました。この石は誰々のものであると。
実はヤップ島にはこの石貨の材料である石はなく、島民は南西に500キロほど離れたパラオ島まで行って石(鍾乳石)を切り出して持ち帰っていたのでした。石貨を得るには大変な苦労があったのです。
証言だけでお金持ちになる人、ずるしてお金持ちになる人
村一番の金持ちはファツマク老人という人で、村一番の大きな石を持っているらしいのですが、誰もその石を見たことがありませんでした。ただ、この老人のおじいちゃん・曾おじいちゃんあたりが、パラオ島でものすごく立派な石を切り出してヤップ島に持ち帰ろうとした時に風雨で海が荒れて、大変な苦労をしながらも途中の海で失ってしまったといいます。それでもその石の大きさや素晴らしさを証言する人がいたために、実物はなくても(海の底に)大きな石を持っている、ということになったのだそうです。
オキーフはこの状況をつぶさに観察して、石を削る機械を使えば、自分で石貨を作れると考えました。そしてなんとか香港まで脱出すると、機帆船(エンジン付きの船)に石を削る機械を積み込んで、パラオ島に向かいました。そして大きな石貨をいくつか切り出し、ヤップ島へと戻ったのでした。
しかし、当時のヤップ島に貨幣経済が浸透していたのかどうかは疑問で、買える物などほとんどなかったはずです。石貨は、お礼や祝い、お詫びの印、いうなれば地域社会の潤滑油として使用されていた程度だったのかもしれません。
それでもオキーフは石貨で得たコプラ(ココヤシの果実の胚乳を乾燥させたもの)を香港辺りで売りさばき、一財産作ったのだそうです。とはいえ、苦労せずにズルをして作って運んだ彼の石貨は物語の裏付けがないので、従来の石貨ほどは価値を認められなかったと言われています。
ヤップ島もニューヨーク連銀も同じようなことをしていた
1899年、ドイツがこの島をスペインから買い取ると、ドイツ人が島に派遣されてきます。
ドイツ人は、島に道路を整備するために島民を働かせようとしますが、島民にすれば道路など必要ありません。だから全然働かない。そこでドイツ人は財産である石貨の没収を思いつきました。広場や道端にある石貨に黒いペンキで印をつけて、「これはドイツ帝国の所有物の印である。消してほしければ道路を作れ」と言ったのです。今を生きる私たちには理解できませんが、島民は破産を恐れて一生懸命働きました。この結果、あっというまに道路はできて、ドイツ人は約束通りペンキでつけた印を消し、島民は財産が戻ったことを祝ったのだそうです。
ミルトン・フリードマン(1912−2006年、20世紀後半のマネタリスト、新自由主義を代表する経済学者)は、この石貨の話は決して驚くべきことではないと指摘しています。
彼が引き合いに出したのは1933年のニューヨークでの出来事でした。その頃米国は金本位制を採用しており、金1オンス=20ドル67セントと決めていました。このため、フランス銀行(フランスの中央銀行)はフラン通貨(貨幣+紙幣)の金本位制の裏付けとして、巨額の米ドルをニューヨーク連邦準備銀行(米国の中央銀行)に預けていました。
しかしながら折からの大恐慌で米ドルの信用も怪しくなってきました。フランス銀行は米国の金本位制維持も無理ではないかと疑い、ニューヨーク連銀に米ドル預金を金塊に換えてくれと頼みます。これなら米ドルが下がっても安心です。ただし米ドルと取り替えた金塊をフランスまで運ぶとコストがかかるため、ニューヨーク連銀で預かってくれと依頼しました。
するとどうでしょう。ニューヨーク連銀では、金塊をドル金本位制の準備として貯蔵してあった棚から預かり用の棚へと数メートル動かして、「フランス中央銀行保有」というラベルに張り替えました。まるでヤップ島でドイツ人が石貨にペンキで印をつけたように。
当時これは「米国から金が流出」と大ニュースとなり、ドルを金に換える者が増えたため、とうとう米国は金本位制を放棄することになりました。
ヤップ島の石貨の話を「変な通貨制度だな」と面白がっていたら、資本主義の先進国である自分たちも、地中深く掘り起こした貴金属を広場(中央銀行)に置いて、似たようなことをしていたのでした。
2022年3月、ロシアがウクライナに侵攻した際には、ロシア中央銀行が外国の中央銀行に預けている外貨が凍結され、使えなくなりました。これもドイツ人がヤップ島の石貨にペンキで印を付けたことに通じる話です。ヤップ島でもロシアでも、お金はたしかに存在するのに、所有権を持たない第三者によって、使用できないようにされました。現代の我々が使っている貨幣の価値は、意外にも危ういものなのです。
もっとも、ロシアは随分前から侵攻の準備をしていたようです。侵攻直前には、こうした事態に備えて、大量の金塊を集めていたことが知られています。
海外に預けてあるお金が引き出せなくなった時やロシアの貨幣価値が世界的になくなった時に備えて、絶対的な価値がある金を買っていたのでしょう。
ヤップ島民はパラオへ石採りに、現代人はマイニングで暗号資産を
フリードマンは、ヤップ島の物語は金本位制下の通貨の話と同じではないかと指摘しましたが、我々の時代には、もうひとつ新しい形の通貨が存在しています。それが暗号資産です。
以前、ビットコインなどは「仮想通貨(virtual currency)」と呼ばれていました。しかし、法定通貨との誤解を生みやすいこと、また法令上や国際的な議論の場で「暗号資産(crypto-asset)」の表現が用いられつつあることから、ここでは「暗号資産」という言葉を使います。
暗号資産を報酬として得るため、つまり新しく通貨を供給するためには、一定のコストをかけてマイニング(鉱物発掘、実際の作業は取引台帳の更新)をしなければなりません。それはあたかもヤップ島の人がパラオまで石を切り出しに行くのに似ています。
また、所有者の履歴は、改ざんができないように、ブロックチェーン技術によって連続的に台帳に記録されます。これはヤップ島では人々の記憶の中でした。それでも通貨を構成する3つの機能、①価値保存、②決済、③価値尺度があれば、それはまぎれもなく通貨なのです。
ヤップ島は、第一次世界大戦の結果、1922年に日本の委任統治領になります。この石貨を珍しがった日本人は、いくつかの石貨を日本に持ち帰りました。そのひとつが今も日比谷公園に解説の説明板付きでさりげなく置いてあります。説明板には1925年当時1000円(現在価値で約150万円程度)したと記されていますが、今これを持ち帰る人はいないでしょう。
日比谷公園の石貨は黙して何も語りませんが、ながめていると通貨とは? と想いを巡らせます。通貨の素材には、金銀などの貴金属に銅やニッケル、紙や石、あるいは歴史的には貝や布や塩などもありました。しかし今や通貨は預金通帳に印字された数字や、スマホ画面の微細な電子の配列だったりします。金本位性のように、いつでも一定の量のゴールドと取り換えてくれるわけでもありません。
通貨にとって重要な事は、外見や物質だけではなく、保有者たちが価値を共有することができる「神話」あるいは「共同幻想」、つまり「価値あるもの」としての共通認識が必要なだけなのかもしれません。であればその価値は、共通認識の強度で判断されるべきです。
石貨は受け渡さなくても支払いができました。現代の暗号資産は、スマホさえあれば、低コストで支払いも海外送金もできます。それならば、暗号資産でなくても、国境を持たない通貨そのものを作ればとても便利になるじゃないか。そう考えた人がいました。フェースブック(メタ社)の創始者マーク・ザッカーバーグです。次回はそのお話をします。
Furness, William Henry ”Islands of Stone Money : Uap and the Carolines”(Philadelphia and London : J.B. Lippincott Co., 1910)