菅元首相の前にも2人いた!? 秋田出身の総理大臣候補

思わずドヤりたくなる! 歴史の小噺/ 板谷 敏彦

47都道府県、「この県といえばこれ!」というとっておきの歴史の小噺をご紹介する連載です。作者は、証券会社出身の作家・板谷敏彦さん。大の旅行好きで、世界中の主な証券取引所、また日本のほとんどすべての地銀を訪問したこともあるそうです。

第32回は秋田県。当県出身初の総理大臣といえば菅氏ですね。しかし、じつは明治時代の同じ時期に、首相候補になりえた2人の大物政治家がいたそう。政治家になる前に、経済誌創刊、大学創立に関わったという2人の人物とは。
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鉄道がない時代、物資を運んだのは3つの河川

秋田県は日本海側に面し、北は白神山地や十和田湖を挟んで青森県、東は奥羽山脈によって岩手県、南は鳥海山を境に山形県と接している。

令和4年版秋田県勢要覧によると、1955年に134万8871人いた県の人口は95万9502人(2020年)に減少している。また人口の約30%の30万7672人が秋田市に集中している。

県内には3つの大きな河川がある。北に米代(よねしろ)川、中ほどには雄物(おもの)川、南には子吉(こよし)川が流れている。

鉄道がなかった時代には舟運で秋田各地の物資を日本海まで運び、そこから先は北前船が上方と結んでいた。

藩の財政を支えた「鉱山」

秋田藩は明治維新後の呼び名で、江戸時代の幕藩体制下では久保田藩と呼ばれていた。

秋田には鉱山が数多く、鉱山経営が藩の財政を支えた。代表的な鉱山としては院内鉱山と阿仁鉱山があった。そこで産出される金・銀・銅は、幕府貨幣の材料としてだけではなく長崎から海外への重要な輸出品目でもあったのだ。

江戸時代初期、最盛期の院内銀山では人口が1万5000人にまで達し、城下町の久保田(現秋田市)を上回るほどだった。地理的に冷害などが多く藩財政が苦しかった久保田藩では、こうした山奥の鉱山町の住人に価格統制された年貢米を販売することで、安定的な収入を得ることができた。

その他にも、出羽山地と奥羽山脈の間には小坂鉱山や尾去沢(おさりざわ)鉱山がある。江戸時代には盛岡藩の領地だったが、維新後は秋田県域となった。そして、日本有数の鉱山として明治期の日本の近代化に貢献した。

秋田には数多くの鉱山がある

※この地図はスーパー地形アプリを使用して作成しています。

経済誌「東洋経済新報」を創刊後、財界、そして政界へ

2020年、第99代内閣総理大臣菅義偉氏は秋田県出身者として初の首相となった。しかし戦前にも、もしかしたら首相になっていたかもしれない人物が2人いた。今回はその人物の紹介をしよう。

現在の県立秋田高校(旧制秋田中学)は明治13年に13人の第1回卒業生を送り出している。

その1人、町田忠治(まちだちゅうじ・1863−1946年)は貧しさに苦労しながらも秀才の誉高く、県費留学生に選ばれて明治20年に東京帝国大学法科を卒業する。卒業後は一時官僚になるもジャーナリストを志望し、朝野(ちょうや)新聞に入社した。

この時一緒に論説を書いたのが、後の首相・犬養毅(号は木堂)と、憲政の神様・尾崎行雄(号は咢堂(がくどう))である。号とは、本名とは別に使用する名称のことで、町田は号を「幾堂」と名乗り、3人は”三堂”と呼ばれ論陣を張った。

明治26年にはロンドンへ外遊し、そこで出会ったのが英国の経済誌「エコノミスト」である。町田は日本の近代化にもこうした経済誌が必要であると確信し、帰国後の明治28年に、現在も発行を続ける「東洋経済新報」を創刊した。

普通ならばそれで終わるところだが、経営を軌道にのせた明治30年に、町田は日本銀行へ入行し、ジャーナリストから金融マンへと転身した。当時の日本銀行は人材不足で各方面から人材を集めていた。高橋是清などもそうしてスカウトされた人材の1人である。

ところが入行して2年目に、日銀ストライキ事件という行内の権力争いに巻き込まれて退社。その時、大阪の財閥山口銀行(山口県の銀行ではなく、のちの三和銀行、現 三菱UFJ銀行 の前身のひとつ)に乞われ、経営者として入社した。

それから13年、町田は大学出身者を雇ったり、両替商的だった古い銀行経営を刷新し、関西財界の重鎮の1人となる。ジャーナリストから財界に転身して大成功を収めたのだ。ところが町田の向上心はそこでも止まらない。明治45年、49歳の時に秋田県から第11回衆議院議員選に出馬して政界へと進出したのである。

以降町田は10回当選、農林大臣、商工大臣、国務大臣を歴任。特に岡田内閣の商工大臣の時には2・26事件で暗殺された高橋是清に替わり大蔵大臣を兼任した。当時の日本の軍国化がすすまなければ総理大臣にもなっていたと言われている。町田は全国区ではさほど有名ではないが、近代政治史や金融史の中では要所要所に登場する大物である。

鉱山を立て直し、大学を創立。町田と同時期に政界の道へ

そんな町田忠治の秋田中学での1年後輩に田中隆三(たなかりゅうぞう・1864−1940年)がいた。

没落士族の町田も貧しかったが、同じ士族の田中も格別貧しかった。田中も県費留学生に選ばれて大学予備門(東大の前身のひとつ)に行けることになったが、東京までの旅費がない。当時馬車やすでに部分的に鉄道などもあったが、田中は東京まで600キロの道を歩き通した。

田中は東京帝大の法科を卒業すると同時に農商務省に入り、エリートコースの第一歩を踏み出した。以後、鉱山局次長、鉱山監督官、衆議院書記官、法制局参事官、鉱山局長、行政裁判所評定官、農商務省次官と順調に昇進したが、明治38年になって転機が訪れる。藤田組への転職である。

藤田組というのは「関西の渋沢栄一」と称された藤田伝三郎の起こした会社の一つで、秋田県の小坂鉱山を所有していた。藤田は「 南海電鉄 」「 関西電力 」「毎日新聞」などを創立したほか、大規模な児島湾の干拓などでその手腕が知られていた。

当時、技術者不足で小坂鉱山は操業の効率が低下していた。そのため、藤田は腕の立つ鉱山経営者を探しており、秋田県出身のエリート官僚で鉱山に詳しい田中に目をつけたのである。

田中は見事に小坂鉱山を立て直す。そして、鉱山技術者の不足は小坂鉱山だけではなく、日本全体の問題だと捉え、ドイツのフライベルク鉱山学校を手本とした鉱山大学設立に尽力することになった。自分が給料をもらっている小坂鉱山の人材育成だけでなく、広く日本の鉱業全体の発展を考えたのである。

設立資金は田中が奔走して集めた。当時秋田に鉱山を持っていた三菱の岩崎久弥、「 古河 」の古河虎之助、藤田組の藤田伝三郎が合計で35万円(注:米価で換算すると現在で14億円相当)を拠出した。

こうして明治43年、秋田鉱山専門学校が創立する。国内唯一の鉱山大学であった。田中が設立した秋田鉱山専門学校は、秋田大学国際資源学部となり、今も日本の鉱山技術者を輩出し続けている。

小坂鉱山退社後の明治45年、田中も「お国のお役に立ちたい」と町田と同じタイミングの第11回衆議院議員選に秋田で出馬し、当選して政界へと進出する。

当選5回目の昭和4年、”ライオン宰相”こと浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣では文部大臣として初入閣することになるが、この時すでに同郷の町田が農林大臣に就任していた。

同一選挙区から2人の閣僚というのは前例がない。「秋田だけずるい」と大反対が起きたが、浜口は押し通した。その結果、秋田県の同一選挙区出身者の2人が同時に閣僚となったのである。

この時秋田では、秋田中学出身2人の閣僚の誕生に、町はお祭り騒ぎになったのだそうだ。

2人に共通するのは、貧しかったためにジャーナリストや官僚、そして経済人として成功してから政治家を志したことだ。そのため政界で重要な地位を占める頃には少し歳をとっていた。

しかし、そのおかげで目先の選挙だけを目的とする政治屋ではなく、国家全体を見据えることができる政治家になったのだ。

田中が経営を立て直した、小坂鉱山事務所

秋田のおすすめ観光スポット&グルメ

秋田では鉱山をテーマに観光することをおすすめする。

鉱業博物館(秋田市)
秋田大学大学院国際資源学研究科の附属施設としてキャンパス内に鉱業博物館がある。

創立以来100年以上に渡って研究や学生教育のために収集された地質・鉱工業関係の資料は膨大な数にのぼり、素人には何が何だかわからぬほどのマニアックな雰囲気を醸しだしている。

その一方で、資源開発の流れと鉱山技術については、実機と精密模型を使って素人にもわかりやすく解説されているのが特徴である。

自動車のEV化が進めば石油資源は節約されるものの、電池にはレアアースなど地球資源が収奪される。人間活動と地球のあるべき姿を改めて思い起こさせることになるだろう。

膨大な地質・鉱工業の資料を展示する「鉱業博物館」

小坂鉱山(小坂町)
田中隆三が立て直した小坂鉱山(現 DOWAホールディングス )はすでにその役目を終えているが、「小坂鉱山事務所」や、鉱山で働く人たちのために建てられた芝居小屋の「康楽館」などは国重要文化財として保全され、さらに現役の芝居小屋として興行が続けられている。

小坂町では鉄道遺産としての小坂鉄道レールパークなども含めて一連の施設を見学することができる。

現在も芝居小屋として興行が続く「康楽館」

尾去沢鉱山(鹿角市)
三菱(現 三菱マテリアル )が経営していた尾去沢鉱山は1978年に閉山。その後は「史跡尾去沢鉱山」として坑道内が見学できるように整備されている。

ここは約1300年前から採掘が行われていた古い鉱山である。最盛期には4500人が働き、小学校の児童数でも2000人いたという山中の都市は、今はもう森に還ろうとしている。

この他にも阿仁鉱山(北秋田市)には「伝承館」、院内銀山には「院内銀山異人館」があり、それぞれ歴史資料館になっている。各施設は鉄道での移動は不便なのでレンタカーなど車の利用をおすすめする。

内部が見学できる「尾去沢鉱山坑道」

秋田市の盛り場といえば、市内を流れる旭川沿いに発達した「川反(かわばた)」である。昔は川端にせり出した料亭に管弦の音が鳴り響いたであろう風情も、わずかながら一部では未だ残されている。そうした中でおすすめは、「さけ富」だ。

北前船による昆布文化らしく、上方風の薄口の出汁で味わうおでんは極上である。写真は甲羅にカニの身などをつめたおでんダネ、カニ面。ほかにも枝豆のおでんなど、特徴のあるタネも多く、酒処秋田の地酒も充実している。

カニの甲羅を使った特徴的なおでんダネ「カニ面」

秋田はレベルの高いオーセンティックなショットバーが数多くある。そうした中で「BAR ル・ヴェール」はドレス・コードが要求される国内屈指のハイセンスなバーだ。カクテルのマンハッタンが有名である。

ドレスコードが要求される「BAR ル・ヴェール」のマンハッタン