助さん格さんのモデルは『大日本史』編纂の学者だった

思わずドヤりたくなる! 歴史の小噺/ 板谷 敏彦

47都道府県、「この県といえばこれ!」というとっておきの歴史の小噺をご紹介する連載です。作者は、証券会社出身の作家・板谷敏彦さん。大の旅行好きで、世界中の主な証券取引所、また日本のほとんどすべての地銀を訪問したこともあるそうです。

第34回は茨城県。国民的時代劇といえる「水戸黄門」は、黄門さまが全国漫遊をしながら悪者を懲らしめる話です。しかし、モデルとなった光圀は全国をまわっていませんでした。一体なぜ「水戸黄門」が生まれたのでしょうか? 史実とともに紐解きます。
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利根川の流れを変えた徳川家康

茨城県の地形は県南部に関東平野が広がり、北部には阿武隈(あぶくま)山地と八溝(やみぞ)山地が走っている。

筑波山は東京から眺めると、まるで独立峰のように見える。しかし、八溝山地の南端に位置しており、筑波山以北には山々が連なっている。

約20万年前、関東平野一帯は「古東京湾」と呼ばれ、現在の東京湾とつながる浅い海の底にあった。その後、氷河期と間氷期による海面の上昇と下降によって、陸地化を幾度となく繰り返した。

霞ヶ浦は県の南東部に広がる湖だが、1000年ほど前には香取湾としてまだ海の一部だった。やがて鬼怒川や利根川などの土砂が堆積し淡水化して現在に至っている。

徳川家康は江戸幕府開府後、江戸の水害対策として、それまで東京湾に注いでいた利根川を現在の関宿(せきやど)付近で銚子方面へと付け替えた(利根川東遷)。それ以降、堤防を築き利根川を治水してゆく過程で、霞ヶ浦の干拓と耕地化が進み霞ヶ浦の面積は減少している。

筑波山は八溝山地の南端に位置する

※この地図はスーパー地形アプリを使用して作成しています。

水路で江戸とつながった霞ヶ浦

第19回(富山県)に書いたが、北海道や東北諸藩からの物産や米は、北前船によって日本海側を通り、大阪へと持ち込まれた。これは現在の千葉県沖が難所で、当時の航海技術では太平洋廻り航路の危険が大きかったためである。

ところが利根川の流路が変わって霞ヶ浦が水路で江戸とつながると、北からやって来た物資は那珂湊(なかみなと)を経て、一部海老沢付近で陸路をとりながらも江戸までつながった。このルートを内川(うちかわ)廻しという。

那珂湊には東北地方の太平洋側に流れる北上川、阿武隈川、那珂川流域などの物資が集まるようになり、鉄道が開通するまでの間、内川廻しは栄えた。

海老沢の内川廻しの回漕(かいそう)問屋から始まった川崎定徳株式会社(戦前の東京川崎財閥)は各地に銀行を建てた。内川廻しが栄えた名残は、歴史的建造物として評価される銀行跡に残っている。

徳川光圀が命じた『大日本史』編纂事業

徳川御三家の一角である水戸徳川家は、1609年の徳川家康の末男・頼房(よりふさ)の水戸への転封(幕府の命令で、大名の領地を他に移すこと)から始まった。

その際、頼房は幼かったので水戸へは行かず江戸で育てられた。それ以降、水戸藩主は他の大名と異なり、参勤交代がない江戸常住(常府)となった経緯がある。

この頼房の三男で第2代藩主になったのが「水戸黄門」で有名な徳川光圀(とくがわ みつくに・1628ー1701年)である。

黄門さまの決め台詞、「この紋所が目に入らぬか」とともに見せる印籠の葵の家紋は、将軍以外では御三家と御三卿だけに許されていた。

徳川光圀は名君と呼ばれた殿様で、水道事業や寺社改革、殉死の禁止、「快風丸」を建造して蝦夷地探検をさせたりした。また儒学を奨励し、「彰考館」を設けて『大日本史』を編纂した。

この『大日本史』編纂事業は大規模なものだった。光圀の治世だけでは終わらず死後も水戸藩の事業として継続され、完成したのは明治時代に入ってからであった。

日本史編纂の過程で、皇室こそが日本を統治する権力の正統性を持つとしてこれが尊王思想となる。

幕末の第9代藩主・徳川斉昭(なりあき)の時代には、財政難や外国船到来など内憂外患の中で国家的危機をいかに克服するかが研究され、それが攘夷思想に結実した。これが尊王攘夷の水戸学である。

水戸藩は御三家なのに尊王とは変だと思うかもしれない。しかし儒学的合理性の下で水戸藩の歴史的存在意義を突き詰めると、皇室は「王道」、武士は「覇道」(編集部註:武力・権謀をもって行なう支配・統治の仕方)ということになる。

そして水戸藩は「王道」を守るために「幕府を倒す」ではなく、「幕府とともに」皇室をお守りしなければならないという結論に達したのである。

しかしこんなヤバい学問を続けられたのも、御三家の一角であったればこそ。他の大名ならばすぐにお取り潰しになっていただろう。

明治の偉人に茨城県出身者の影が薄いのは、水戸藩の過激な尊王攘夷思想ゆえに、幕末の争乱に命を落とした優秀な若者が多かったためだと筆者は考えている。

徳川光圀が「水戸黄門」として知られる理由

「水戸黄門」は全国を漫遊するが、実在の光圀はどうであったのか?

常府の歴代水戸藩主は基本的に江戸生まれで江戸から離れなかった。その中で光圀は唯一の水戸生まれで例外的によく水戸へ帰る藩主だった。

しかしその生涯の行動範囲は、祖母が建立した英勝寺がある鎌倉を例外として、ほとんどが江戸と水戸の間と領内に限られている。隠居後もせいぜい水戸藩内で、水戸黄門のように全国漫遊などはしていないのだ。

では何故光圀は水戸黄門として知られるようになってしまったのだろうか?

光圀は『大日本史』を編纂する過程で、資料収集のために北は岩手から南は熊本まで全国に使者を派遣した。歴史を書くために文献が残る寺社への訪問が目当てだった。

光圀自身は全国漫遊はしていないが、光圀の使者の訪問来歴が各地に残されたわけである。

特に『大日本史編纂』のための側近として仕えた、佐々介三郎(ささ すけさぶろう)は全国を渡り歩いた。そしてもう一人の主要な側近に、安積覚兵衛(あさか かくべえ)という人物がいた。

TV時代劇『水戸黄門』にて、劇中の助さんの名は佐々木助三郎、格さんの名は渥美格之進(あつみ かくのしん)である。

佐々介三郎→佐々木助三郎→助さん
安積覚兵衛→渥美格之進→格さん

つまり、水戸黄門の助さん格さんは、実在の『大日本史』編纂の学者がモデルだったのである。

ちなみに風車の弥七や、由美かおるが演じたかげろうお銀などの忍者は、光圀が隠密を放っていたという伝説から採用された設定である。

イメージが一人歩きする「水戸黄門」

『水戸黄門記』などは、実録小説(江戸期のアンダーグラウンド雑誌)で書かれていたが、“黄門さま”が本格的に大衆の前に現れるのは明治に入ってからである。

明治10年に劇作家・河竹黙阿弥(かわたけ もくあみ)作の水戸黄門の歌舞伎が演じられ、この頃から当時流行っていた講談でも語られるようになった。

この際に話はどんどん盛られていって、勧善懲悪の光圀の行動は水戸藩内に限られるはずが、範囲を広げて全国漫遊へと膨らんでいったと考えられている。当時流行っていた旅ものである弥次喜多道中の影響も受けていたのだろう。

また東京の講談では黄門さまのお供は俳人だが、上方(かみがた)で助さん格さんバージョンが流行ると、これが東京にも流れ込んで今に至る。助さん格さんは大阪発であった。

クライマックスの「頭が高いひかえーい」はこの頃からの決め台詞で、もともとは「頭が高い」じゃなくて「座が高い」と一喝するのだ。だから悪い奴らは縁側から飛び降りて地べたでかしこまることになる。

講談や歌舞伎はやがて映画となり、入浴シーンが入り、男女の仲も盛り込まれる。そしてTV番組になる。

長寿番組ナショナル(現パナソニック)劇場の「水戸黄門」は1969年にスタートし2011年まで続き合計1227話を記録した。その後もブランクを経てBSで武田鉄矢バージョンがあり、合わせると1248話にもなっている。

ちなみに「この紋所が目に入らぬか」と葵の御紋の印籠を取り出すのは1970年代半ば頃からで、最初はなかったのだそうだ。
つまり、水戸黄門は実在の人物である徳川光圀を盛りに盛ったフィクションなのである。

参考図書:『水戸黄門「漫遊」考』金文京著、講談社学術文庫

茨城のおすすめ観光スポット&グルメ

水戸市内の観光は梅の季節の偕楽園も含めて、茨城県立歴史館、水戸市立博物館、弘道館などを巡っても東京都心から1日がちょうど良い行程である。

その際にはバスの市内一日フリー切符が便利な上に、各施設の割引もついているからかなりのお得でもある。ちなみに水戸市内でSuicaは使えない(※著者取材時)。

また1泊して古い町並みの那珂湊や大洗海岸方面、あるいは四季を通じて花で有名な国営ひたち海浜公園を加えると旅の収穫は大きく広がるだろう。特に春に一面に咲くネモフィラは有名だ。

『大日本史』の編纂は小石川後楽園にあった水戸藩邸で始まったが、後に水戸城二の丸に移された。

水戸市三の丸にある大日本編纂の記念碑

梅の名所・水戸偕楽園は第9代藩主徳川斉昭によって造営された。

第9代藩主が作った偕楽園は梅の名所

那珂湊まで足を延ばせば、徳川斉昭が国防用の大砲製造のために作らせた反射炉跡が残されている。

国防のために作った那珂湊の反射炉跡が那珂湊に残る

水戸市では有名な居酒屋「かにや」を訪ねた。読んで字のとおり、蟹の店だが、その他の魚介類の刺身や焼き物もとても美味しい。茨城県の地酒も楽しめる。

店内は調理場を囲むカウンターで昭和の居酒屋の雰囲気が残る。食材が良い分だけプライスレンジはやや高めになる。居心地の良い店で、わざわざ宿をとってでも行く価値はあるだろう。

食材の良さを感じる、「かにや」お手製のかれいの干物

水戸市内で訪れた「Bar Area」のバックバー(カウンター越しの棚)はウィスキーを始めスピリッツ、リカー各ジャンルとも充実している。その中でも感心したのはバーボンの品揃えとバーマンの商品知識である。

お酒を静かに楽しむ時間は沈思黙考の時間でもある。多くの街とバーを訪ねた筆者は、バーは街の知性を代表していると考えている。

良い街には必ず良いバーがある。水戸にも良いバーがあった。

バーボンの品揃えとバーマンの知識が豊富な「Bar Area」