「女医」誕生の背景には、全盲の天才学者がいた

思わずドヤりたくなる! 歴史の小噺/ 板谷 敏彦

47都道府県、「この県といえばこれ!」というとっておきの歴史の小噺をご紹介する連載です。作者は、証券会社出身の作家・板谷敏彦さん。大の旅行好きで、世界中の主な証券取引所、また日本のほとんどすべての地銀を訪問したこともあるそうです。

第36回は埼玉県。渋沢栄一とともに、埼玉の三大偉人と称される人物がいるそうです。困難を乗り越え、後世に継承される功績を残した3人にはそれぞれ関係があったようで……。
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かつて盛んだった利根川の舟運

埼玉県は関東平野西部に位置する内陸県で、南側の東京都から時計まわりに山梨県、長野県、群馬県、栃木県、茨城県、千葉県と接している。西部には2000メートル級の高い山を擁する秩父山地がそびえ、東に向かうに従って丘陵地、平地と高度を下げていく。

県東部では荒川や利根川に沿って沖積平野(編集部注:河川による堆積作用によって形成される地形)が広がり、田園や運河、用水路など水郷的景観を持つ。この地域は江戸に徳川幕府が開府して以降、後背地としての重要性が増し、県央部に中山道が整備され、さらに舟運が盛んになった。

埼玉県は6つの県と隣接している

※この地図はスーパー地形アプリを使用して作成しています。

県北部の深谷市には、埼玉県人の渋沢栄一が設立した「日本煉瓦製造会社」があった。鉄道が開通するまで、煉瓦は利根川の舟運を利用して東京へ出荷され、明治初期の都心の洋風建築の資材となった。

例えば、東京駅の煉瓦はこの日本煉瓦の製品である。また、現在の深谷駅はそれに因んで、東京駅を模した煉瓦建築のデザインで知られている。

東京駅を模したデザインのJR深谷駅

2021年の大河ドラマ「青天を衝け」の影響もあり、埼玉県の偉人と言えば渋沢栄一がまず浮かぶ。だが、もう少し昔の人物で、戦前の小学校の教科書には必ず登場し、全国的にも有名だった人物がいる。

それが視覚障碍の国学者・塙 保己一(はなわ ほきいち:1746~1821)である。

全盲ながらも特殊能力をもっていた保己一

埼玉県北部、現在の本庄市に生まれた保己一は数えで7才の時に失明。15才で江戸に出て盲人一座に入門する。

盲人一座というのは、あんまや三味線、金貸しなどの芸や職業などを仕込んで、盲人が独立して生きていけるようにと作られた江戸時代の幕府公認の職業組合である。

保己一はあいにく手先が不器用で、あんまも三味線もうまく習得できなかった。だが、記憶力は抜群によく、一度読んで聞かせてもらった本は完全に暗記してしまうという特殊な能力を持っていた。

そんな保己一の才能に感心したのか、武家の家にあんまに出かけると、褒美に本を一冊読んでくれるような人もいれば、貴重な本を貸してくれる身分の高い人もいた。やがて評判を聞いて本集めのスポンサーになってくれる豪商も現れた。

保己一が所属した一座の長である雨富検校(筆者注:検校とは座の一番上の階級で、旗本並みの扱いを受けた)も立派な人物で、あんま、三味線では落ちこぼれの保己一が、視覚障碍者だからという理由で学者の道に進むことを否定せず、勉強をサポートしてくれた。

かくして保己一の学業はすすんでいく。しかし、奢ることなく、保己一の態度は偉い武家に対しても、豪商に対しても、仲間の盲人に対しても、誰に対しても謙虚で同じように接したという。

戦後の教科書から消えた偉業

そんな保己一は、大量の読書を経て、図書の全体像が見え始めると、世の中の古書の散逸を心配するようになった。どの古書のどの部分が欠けているのかがわかるようになったのだ。

そこで1779年、34才の時にライフワークとして古書の体系化である『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』の編纂を決意した。「決意した」とは北野天満宮で必ずやり遂げます、と誓ったのである。

1783年に保己一は検校に出世し、その後、和学講談所(わがくこうだんしょ)を設立。ここを拠点として『群書類従』の編纂をすすめ、印刷できるように版木を彫った。

『群書類従』は1793年から出版を開始、1819年までに1273種530巻666冊を発刊し、完成した。保己一はその後、1821年に没している。『群書類従』は、保己一の死後も弟子たちによって続編が出され、現在にいたるまで歴史研究には欠かせないものとなっている。

視覚障碍者の天才学者・塙保己一の大願を果たすまでの苦労は計り知れない。視覚障碍者がゆえに多くの人々の助力が必要だったはずで、その極めて高潔な人格が、人々を惹き付けたようである。

戦前の小学校の教科書に必ず載っていた彼が、戦後、人目につかなくなったのは、彼の学問が国学であり、天皇崇拝と異人排撃の尊王攘夷運動に結びついたからだろう。米軍による占領政策に馴染まなかったに違いない。だが、それでも保己一の偉大さは何も変りないのである。

古書を体系化する偉業を残すも、教科書から消えた保己一

古文書から女医の先例をみつけ、頑固な役人を説得

そんな塙保己一の業績の恩恵を受けた埼玉県の人物がいる。日本初の女医の荻野吟子(おぎの ぎんこ:1851〜1913)である。

荻野吟子は塙保己一生誕の地から東へ少し行った利根川沿い、現熊谷市の名主の家に生まれた。裕福な名主の家に嫁いだまでは良かったが、遊び人の夫から淋病をうつされ、それが原因で落ち込み、あげくはうつ病として離縁させられる。

性病の治療で男性医師に囲まれたつらい経験から、吟子は女性医師になろうと決意する。東京女子師範学校(現お茶の水女子大)の一期生として学びながら、医学校への入学機会をうかがい、ようやく医学校に入学。

勉強に励むが、当時は医師の国家資格ができたばかりで、女性は医学校を卒業しても国家試験を受験できなかった。

頭の固い先例主義の役人に受験することを断られた吟子は、日本古来の古文書から日本における女性医師の先例を探した。

すると塙保己一が編纂した『群書類従』の中から、奈良時代の法令解説集『令義解(りょうのぎげ)』を取り出し、そこに女性医師の規定があったことを見つけ出した。律令時代の日本のほうが、よほど進んでいたのである。

当時の明治政府が律令時代の古い職制を復活させていたような状況だったこともあり、大昔の『令義解』も説得力を持ちえた。こうして吟子はようやく試験を受けることができ、医師になれたが、その時すでに34才になっていた。

その後も波乱万丈だった吟子の人生は、渡辺淳一の小説『花埋み(はなうずみ)』に描かれた。さらにそれをもとにTVドラマや舞台化され、最近では2019年に『一粒の麦 荻野吟子の生涯』として映画化されている。

自身の富より社会奉仕を優先した、埼玉の三大偉人

埼玉県には三大偉人と呼ばれる人がいる。さきに挙げた塙保己一と荻野吟子、そしてもう一人が渋沢栄一である。

渋沢の業績や人となりについては、あえてここでは触れないが、渋沢は塙保己一の業績を顕彰し、『群書類従』版木の保存のために、渋谷の國學院大學の近くに温故学会を設立した。

昭和12年に視力と聴力を失ったヘレン・ケラーが来日した際には、まず温故学会を訪ねた。そして、この版木を手で触れ、「自分は全盲の学者・塙保己一にずいぶんと勇気づけられた」と挨拶をしたそうである。

何故ヘレン・ケラーが保己一を知っていたのか? どうやら日本びいきだった電話の発明家グラハム・ベルが、仲が良かったヘレン・ケラーの家庭教師サリヴァン先生に日本で有名な保己一の話を伝えていたようである。

塙保己一は、徳川幕府下で視覚障碍者の座では最高位である総検校にまで上り詰める。通常なら富を蓄え、裕福な身分になれるはずだが、保己一はすべての財産を『群書類従』の編纂につぎ込み、亡くなった時には借金まであったそうである。

荻野吟子も医師となったが、女性の人権活動に生涯を捧げ、晩年は決して豊かではなかった。

また渋沢栄一も日本を代表する大企業を数多く設立し、本来であれば三菱・三井・住友に匹敵する大財閥を残してもおかしくはなかったが、自身の富の蓄積よりも社会福祉事業に精を出した。

この埼玉県の三大偉人に共通していたのは、利己的な金銭欲ではなく、社会に奉仕する利他的な心であったと言えるだろう。

渋沢は塙保己一の業績を顕彰し、温故学会を設立(写真は「渋沢栄一記念館」裏手の像)

埼玉のおすすめ観光スポット&グルメ

塙・荻野・渋沢の3人の出身地である埼玉県北部には各々の記念館がある。首都圏からであれば1日の行程で、自動車で回ることができる。JR深谷駅かJR熊谷駅でレンタカーを借りればちょうど6時間の行程である。

本庄市の塙保己一記念館は資料等がきちんと整理され見やすく展示されていた。深谷市の渋沢栄一記念館は、財界の大物であったことや、大河ドラマが放映された直後だったからか、充実した展示であった。

熊谷市の荻野吟子記念館は、生家のあった利根川沿いに、当時の長屋門を模した建物にある。ここではボランティアのガイドさんが、利根川舟運の歴史から、吟子の生涯までを丁寧に説明をしてくれた。手造り感満載の歴史博物館になっている。

「荻野吟子記念館」ではボランティアガイドが丁寧に説明してくれる

本庄市から深谷市、熊谷市とドライブしていると、有名な深谷ネギと小麦の畑が大きく広がっている。この地域は小麦の産地で、武蔵野うどんのエリアで名物である。

また、深谷市では名物グルメの煮ぼうとうMAPを作成し、配布している。そこには22店舗がリストアップされている。深谷のほうとうは味噌味の甲府名物ほうとうとは違い、醤油ベースである。

写真は深谷市にある「手打ちうどん麦屋」の肉汁うどん。冷たいうどんに熱いつけ汁で頂く。麺は讃岐うどんよりもコシが強く、食べ応えがある。

地元の小麦粉を使った手打ちうどんはコシが強い