海外旅行ガイドブックの強い味方~コロナ禍で売り上げ95%減
この夏はコロナ前に戻ると言われている海外旅行者数。本屋のガイドブックのコーナーで大きな場所をさいて売られていたのは「地球の歩き方」のシリーズだ。
海外旅行がまだ憧れだった1979年に生まれ、世界160の国と地域に対応し、旅行者たちに安心を届けてきた。
ヘビーユーザーだという京都市の会社員・中村大輔さんの趣味は海外旅行。本棚には「地球の歩き方」がずらりと並ぶ。全て実際に行った国で100カ国以上が揃っていた。
「地球の歩き方は取材力がすごい。例えば『地球の歩き方 フィジー サモア トンガ』には飛行機の路線図が載っていて、島と島の行き来は楽なように見えますが、この区間は木曜日しか飛んでいないとか、制約があるのを教えてくれる」(中村さん)
「地球の歩き方」にはフライトの曜日や時間まで細かく載っているので自由旅行者には有意義。
「旅人が欲しい情報」をどうやって集めているのか。タイ・バンコクで、編集部の今井はジョギングが盛んな夕方の公園を訪れた。その時、町に国歌が流れてきた。
「国歌が流れると直立不動になって(国王に)敬意を表すんです」(今井)
そして国歌が終わると動き出した。かくしてバンコクのガイドには「音楽がなっている間は動かないでいること」という一文が添えられた。
こうして現地での徹底取材を重ね、地球の歩き方は旅行者の信頼をつかんできたのだ。
2023年5月、ダイヤモンド・ビッグ社倒産というニュースが。突然の一報にSNSでは「『地球の歩き方』がなくなる?」と一時、騒然となったが、実はすでに2年前、ダイヤモンド・ビッグ社から学研に「地球の歩き方」は事業譲渡されていた。
学研グループとなった株式会社地球の歩き方の社員は34人。そのほとんどはダイヤモンド・ビッグ社から移ってきた。
事業譲渡を受けた時の状況を、地球の歩き方・社長の新井邦弘(58)は「本当に未曾有の危機で、売り上げの減少は9割以上でした」と語る。まさにそんな時、社長就任を要請された。新井はもともと学研サイドの人間だが、前向きに取り組めたと言う。
「いまだに名刺交換すると『地球の歩き方』にお世話になりましたと、初対面の人に言われます。この『お世話になりました』がブランドの価値だと思いました。それをどう守るかが僕の最初のミッションでしたね」(新井)
売り上げ95%減という状態から、新井はどうやって復活させたのか。
国内版ガイドブックに旅の図鑑も大ヒット~廃刊危機から攻めの経営へ
復活作戦1「海外から国内へ」
「『地球の歩き方』をやめてはいけない。社会インフラに近いような会社だと思う。『売れるか売れないか』より『作れるものを作ろう』と」(新井)
そこで海外版から方向転換して作ったのが国内シリーズだった。東京・北海道・沖縄など9冊を刊行。旅行ガイドは1冊4万部で合格と言われるなか、累計53万部という大ヒットとなった。
「出されたものを見たらたくさん紹介されていて、分厚い情報が詰まった一冊になっていてビックリしました」(六本木「蔦屋書店」・野中公恵さん)
海外版同様、国内版も情報量と独自の視点で勝負。例えば京都版では、京都独特の言い回しにまで言及。「よろしいなぁ」は「どうでもいい」、「考えときます」は「断ります」という意味を含むと解説している。東京版では、旅行者向けに都営バスの乗り方をレクチャー。23区内では前の扉から乗るが、多摩地区・青梅市などでは後ろからになる。
一つの区だけで一冊作るという新企画の「地球の歩き方 世田谷区」では、世田谷区内で創業して66年、スーパーマーケット「オオゼキ」松原店を取材していた。寿司売り場でボタンを発見。「さび抜きに」など、個別に何か頼みたい時に押すボタンだった。普通なら見落としそうなこんな情報も足を使った地道な取材で拾っていく。
「1カ月ほど世田谷のウィークリーマンションに住んで調べるスタッフも」いるというこの世田谷版。総勢16人のスタッフが取材と編集にあたる。完成まで約1年かかるという。
さらに北九州市でも取材が始まっている。
「『地球の歩き方』っぽく、王道じゃないところを攻めてみようと」(編集部・日隈理絵)
ネタ選びにもポリシーがあると、宮田崇編集長は言う。
「きちんとその土地に根付いた物件を紹介することこそ『地球の歩き方』の使命。東京版の制作当時、一番流行っていたタピオカ店を入れない決断をしました。流行りものを捨てよう、その土地で3年頑張った店以外は入れたくない、と」
復活作戦2「読み物としても面白く」
会議で話し合われていたのは「世界の餃子」。他にも「世界のゴリラ」「世界の妖怪」「世界の水族館」……地球の歩き方・図鑑プロジェクトの新しいテーマを決める会議だった。
過去に世界中で取材した膨大な情報を生かし、攻めたテーマの「旅の図鑑シリーズ」を刊行している。
例えば「地球の歩き方 世界のすごい墓」では、イランに建てられた宮殿のような「エマーム・レザー廟」やメキシコにあるアミューズメント施設のような「イスラ・ムヘーレスの墓地」が紹介されている。
図鑑シリーズはこれまで30タイトルを作り、累計発行部数は38万部に達する。
「作り手側がどれくらい楽しめてはしゃげるかが大きい。逆に言うと、ちゃんとはしゃいでないとダメなんだと思います」(新井)
スタッフは面白がってガシャポンまで作っていた。入っているのは「豆ガシャ本 地球の歩き方」(500円)。16分の1サイズだが、中身はきっちりと再現した。
「ファミリーマート」のお菓子売り場にも「地球の歩き方」が。「インド」と書かれた袋から出てきたのは、マンゴーラッシー味の「地球の歩き方グミ インド編」(178円)だ。
完成間近の新商品はカレー。「世界のカレー図鑑」の中から珍しく、かつ日本人の口に合いそうな物を選び、レトルトカレーのメーカーと共同開発している。
こんなやり方で、コロナ禍に95%減らした売り上げは 新井の社長就任後、1年の時を経て復活の曲線を描き始めている。電子化の波にものり、地球の歩き方の電子版を出したが、新井はこう語る。
「できる限り紙のガイドブックを出し続けます。お守りと言ってくれる人もいる。ネットがつながらなかったら(スマホは)ただの箱。紙は大丈夫です」
海外旅行の頼れる味方~学生向け非売品からスタート
「地球の歩き方」は1977年。学生相手の旅行会社が旅に参加した客の感想を1冊にまとめ、無料で配った非売品から始まった。それが評判となり2年後の1979年、ガイドブックとして発売。その後、さまざまな国のシリーズが作られていく。
一方、新井は1984年、東京都立大学に入り歴史学を専攻。その後の人生を左右することになる先輩と出会う。
「中国史をやっている先輩から『中国に最近行けるようになったから、一緒に行かない?』と」(新井)
日中の国交が正常化してまだ10年あまりの頃。中国ではさまざまな改革が進められていたが、外国人に対しては閉鎖的で簡単には入ることのできない国だった。そんな国への旅で大活躍したのが『地球の歩き方』だった。
「外国人が入っていい都市も限定的。84年は31カ所でした」(新井)
日本の中国大使館ではビザがなかなかおりず、「香港に入って香港でビザを取りました。そのほうが簡単だと本に書いてあったんです」(新井)。中国の入国審査は気が重いが、その抜け方も手書きでやさしく書かれていた。
入国した新井が向かった先は北京から約2200キロ、日本人はほとんど足を踏み入れたことのなかったシルクロードの街、雲南省・大理だった。
この旅をきっかけに新井はバックパッカーとなり一人旅へ。ヨーロッパ、中東、アジアと、手当たり次第に世界を巡った。
大学卒業後は学習研究社(現・学研HD)に入社。最初に配属されたのは月刊「ムー」の編集部だった。「ムー」と言えばノストラダムスの大予言やUFOにネッシー、超能力など、世界の謎めいた話題を独自の視点で斬っていく、いわばマニア向けのミステリー雑誌だ。
新井は2015年に出版を離れ、海外事業のトップに。その後、コロナ禍となり、2021年1月、「地球の歩き方」は学研に事業譲渡された。新会社・地球の歩き方を作るにあたり、海外と出版、両方に通じている新井が社長に選ばれた。
厚木に降り立ったマッカーサー? ~伝説のミステリー本が窮地を救う
ただし、前の会社から移ってきたスタッフの気持ちは複雑だった。
「本当にどん底だったので、どうなるんだろうと不安が大きかった」(編集部・由良暁世)
「(学研は)大きな企業なので、これまでのような自由な活動ができるのかという不安感はありました」(観光マーケティング部・勝政直樹)
一方、新井はこう思っていた。
「いきなり降って湧いた社長が『はじめまして』と来る。うれしいわけがないです。厚木に降り立ったマッカーサーを見ている日本人のイメージだろうと思いました。『占領されていったいどうなるんだろう』と。疑心暗鬼ですよね、それは」
そこで新井は全社員をひとつの部屋に集め、「40年も続くってすごいこと。この本の価値は僕が一番わかっています」と熱く語った。
「早々に信用できる人だと思いました。我々が恥ずかしくて口に出せないようなことまで恥ずかしげもなく言う。『「地球の歩き方」はすごい商品だ』『Yahoo!コメントに温かいコメントが出ているよ』と、誰よりもはしゃいでいた。珍しい人だなと。新井社長じゃなかったら無理だったと思う」(宮田編集長)
実際、新井体制になって以前とは空気が変わったと言う。
「すごく声を拾ってくれる。会食の機会を作ってくれて、『皆さんが何を考えているのか知りたい』と。その時に社長が映画好きで、私も好きだと言ったら、『では企画を出してみて』と言われました」(編集者・清水真理子)
清水は張り切って企画を出し、採用された。それが7月に発売された「世界の映画の舞台&ロケ地」。「フィールド・オブ・ドリームス」のトウモロコシ畑や「ジュラシック・パーク」の島など、映画好きにはたまらない情報が詰まっている。
スタッフのモチベーションを上げ、新企画を出しやすくしているのだ。
こうした流れをうむ起爆剤となった一冊がある。それは新井が古巣の編集部に持ちかけて実現した。
かつて新井が担当していた怪しいミステリー雑誌「ムー」。現在の編集長・三上丈晴は、新井の後輩で「編集のやり方を一から叩き込まれた」と言う。
そんな二人が手を組んで企画から立ち上げたのが「地球の歩き方」と「ムー」のコラボ雑誌だ。例えばナスカの地上絵。「地球の歩き方」のページでちゃんと紹介した上で、続く「ムー」のページでは「宇宙へのメッセージではないか」と煽る。
これが13万部の大ヒット。アマゾンの部門別売り上げランキングで1位に輝いた。
味をしめた「地球の歩き方」と「ムー」が今、再び手を組んで動き出した。
「第2弾として『地球の歩き方 ムーJAPAN』、日本の怪しいスポットを紹介する本を企画していて、ちょっと変わった日本の旅をしていただく」(新井)
カッパからはじまり、天狗に鬼、ヒバゴンなどもリストアップ。今年の冬を目指し、製作を開始した。
海外版もいよいよ再始動~現地取材でハワイの改訂版
王道の海外版も動き出した。この日は「地球の歩き方 ハワイ」改訂版の外部の編集プロダクションとの打ち合わせだ。
東京・新宿区の「オフィス・オハナ」の原万有伊さん。父親も「地球の歩き方 ハワイ」を作っており、親子2代でハワイ取材にあたる。
「当て字なのですが、原マウイと言います」と言うハワイの申し子が、2023年5月、ハワイの改訂版を作るため約2週間、現地を取材して回った。予想以上に町は激変していた。
「新しいところも増えているし、今はもうないところもある。3~4割が変わっているので(内容を)入れ替えました」(原さん)
飲食店を中心に店舗は大きく入れ替わり、新たに100スポットを掲載した。店の他にもチェック項目は目白押し。路線バスの番号を見直し、ビーチのシャワーは使える様になっているかなど、ひとつひとつ調べて回った。
「お店とかは変わりましたが、空気感や人の優しさは変わっていなかった。いつものハワイが待っていてくれたと、その時は思いました」(原さん)
※価格は放送時の金額です。
~村上龍の編集後記~
1979年創刊の海外ガイドブック。「地球の」というタイトルがまずユニークで、作っている人の自負を感じる。「世界の歩き方」ではない。「地球という惑星」の歩き方なのだ。表紙のイラストは今も続いているらしいが、独特の世界観を示している。イラストに登場する人々に顔がない。目や鼻がなく、「主人公はあなた」ということを言っているのだと思う。新井さんは、コロナ収束後も見越して「子育てで旅行へ行きづらい夫婦や、海外へ出られない高齢者にも寄り添う本」を目指した。ヒットしている。
新井邦弘(あらい・くにひろ)
1965年、埼玉県生まれ。1990年、東京都立大学卒業後、学習研究社入社。2015年、学研HDグローバル戦略室長就任。2020年、地球の歩き方代表取締役社長就任。
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