外交史に名を残す陸奥宗光。政府転覆の罪で投獄の過去もあった

思わずドヤりたくなる! 歴史の小噺/ 板谷 敏彦

47都道府県、「この県といえばこれ!」というとっておきの歴史の小噺をご紹介する連載です。作者は、証券会社出身の作家・板谷敏彦さん。大の旅行好きで、世界中の主な証券取引所、また日本のほとんどすべての地銀を訪問したこともあるそうです。

第38回は和歌山県。陸奥宗光は、坂本龍馬や伊藤博文にも優秀と認められ、日本の外交史上、卓越した業績を残しました。その頭の切れ具合から「カミソリ大臣」と呼ばれるほどだった人柄とは……
「外交舞台で活躍した小村寿太郎。貧乏な彼を支えた恩師がいた」を読む

「木の国」から転じて「紀の国」に

和歌山県は県北部に中央構造線が走り、それに沿って流れる紀の川流域の平野部と、リアス式海岸の沿海部の開けた土地に分散して都市が形成されている。

内陸部分は居住可能な面積が少なく険しい紀伊山地で、古くから奈良、京都、大阪への木材供給地として「木の国」として知られてきた。やがてこれが和歌山の国名だった「紀の国」になったと言われる。

一方、南部の太平洋沿岸には黒潮が流れ、気候は温暖で、漂流した漁師や移民など伊豆半島や房総半島とも古くからつながりがあったと考えられている。

なお、地図上の北山村は全国唯一の都道府県の飛び地で、県境から離れているが和歌山県の一部である。

北山村は和歌山県の飛び地

※この地図はスーパー地形アプリを使用して作成しています。

2人の将軍を出した紀州徳川家

江戸時代、紀州徳川家は水戸、尾張とならぶ徳川御三家の一角であった。第5代藩主・吉宗と第13代藩主・慶福(よしとみ)は、それぞれ第8代将軍・徳川吉宗、第14代将軍・徳川家茂(いえもち)となり、御三家のうちで将軍を出した唯一の家柄でもある。

紀州徳川家の城下町だった和歌山市の中心部には、和歌山城がある。小山の上に建造された天守閣は町中のどこからでも、また船で少々沖へ出ても見えるほど目立つ、町の象徴的な存在である。第2次世界大戦時の空襲で焼け落ちたが、今は鉄筋コンクリートで再建されている。

そして、和歌山城の南端、道を挟んだ岡公園に和歌山出身で明治時代の外務大臣・陸奥宗光伯の銅像がある(筆者注:伯とは戦前の華族制度における伯爵の意味である)。

投獄されるも優秀さで出世した陸奥宗光

陸奥宗光(むつむねみつ 1844−1897年)は紀州藩の勘定奉行という重臣の家に生まれたが、父はほどなく政争に巻き込まれて失脚し、罪人となってしまう。同時に家族も和歌山の町から所払い(追放)となり、幼少時の陸奥は極貧の生活を強いられた。

しかし勉強がよくできたので、近くにあった高野山の計らいで江戸へ赴く僧の付け人として江戸へ出て、安井息軒(第37回宮崎県編を参照)の塾で勉強することができた。江戸留学中に坂本龍馬ら幕末の志士と交わり、勝海舟が開校した神戸海軍操練所を経て、龍馬が率いる海援隊のメンバーとなった。

「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」と龍馬に言わしめるほど優秀だったが、自尊心が強く対人関係は上手くいかない人物だった。

維新後は政府役人となり、元老院審議官にまで出世するが、陸奥は薩長の藩閥政治を嫌っていた。このため、征韓論に敗れて帰郷し、政府と対立していた西郷隆盛が起こした西南の役に便乗。政府転覆を謀った罪で投獄されて、山形、仙台で5年間の牢屋暮らしとなる。

その後、陸奥は39歳で出獄。仲が良かった伊藤博文の手配で英国へ留学し、政治学を猛勉強をした。もともと優秀な人材である。帰国後は外務省へ出仕して、後に駐米公使となった。

しかし、いくら陸奥が勤皇志士たちの仲間だったとはいえ、政府転覆を企図した人材を駐米公使に任命するとは、明治政府は何と寛容であったのだろう。日本はよほど人材不足だったのか、あるいは陸奥がとてつもなく優秀だったのかーー筆者はその両方だと考えている。

卓越した外交手腕で、幕末以来の不平等条約を撤廃

駐米公使の任を終え、農商務大臣になると、のちに総理大臣となる原敬(第5回岩手県編を参照)を秘書官とした。相変わらず、藩閥を嫌い、前田正名(第6回鹿児島県編を参照)など薩摩閥を農商務省から一掃する。

その後、伊藤内閣で本来の専門である外務大臣に就任。1894年イギリスとの間に日英通商航海条約を締結し、幕末以来の不平等条約である領事裁判権の撤廃に成功する。当時、世界の覇権国家だった英国からの干渉を避け、協力関係を構築しつつ、同時期の日清戦争の遂行に力を発揮し下関条約を有利に導いた。また、戦後の三国干渉に対しては日本の国力を勘案して、あえて受け入れることを主導した。

例えば、大隈重信など気に食わぬ上司のいうことは全くきかないが、坂本龍馬や伊藤博文のように慕う上司のためなら労苦をいとわない。変人の部類だが、まるでカミソリのように頭が切れることから「カミソリ大臣」と人は呼んだ。その卓越した外交手腕は「陸奥外交」と呼ばれ、日本外交史の中で今も燦然と輝いている。和歌山県が生んだ明治の偉人の一人である。

幼少期は和歌山藩から冷たくあしらわれたり、藩士の子弟たちにいじめられたりもして思うところもあっただろうが、陸奥は1890年の第一回衆議院選挙で和歌山から立候補。当選して故郷に錦を飾ることになった。

「名誉は実力で取り得るように、僥倖(ぎょうこう。思いがけない幸運)に求め得られるものでないと知れ」

陸奥が残した言葉である。陸奥のどこがすごいかと言えば、絶望的な逆境からも猛勉強で何度も立ち上がる不屈の精神だろう。陸奥の銅像はまるで気難しい西洋人のような容貌である。

岡公園にある陸奥宗光の像

和歌山のおすすめ観光スポット&グルメ~醤油の始まりは和歌山にあり

醤油は鎌倉時代に伝来した金山寺味噌の製造過程で生まれた。和歌山市から南に20キロほどの有田郡湯浅町にある興国寺が発祥とされている。

江戸時代には紀州藩の保護を受け、文化年間には湯浅町で92軒もの醤油屋が営業していた。

湯浅の醤油は関東地方で主流の濃い口醤油である。当初は大阪の市場に大量供給していたが、次第に薄口醤油を醸造する小豆島や播州の醤油メーカーに押されて、ローカルな醤油メーカーになったのだと考えられている。それでも今でもこの古い製造方法で醸し出される湯浅の醤油を求めるグルメは多い。

関西の北前船による昆布だしの文化(第19回富山県編を参照)は、微妙な旨味を引き出すために汁物には薄口醤油を求め、カツオ出汁文化の紀州や江戸では濃い口醤油を求めたのであろう。関東の醤油の産地・千葉県銚子のヤマサ醤油の創業者・濱口儀兵衛は湯浅に隣接する広村の出身である。紀伊半島との結びつきがあるのだ。

1700年代前半には、江戸で消費される醤油の4分の3は下り醤油(関西産)であったが、1820年頃にはほとんどを銚子や野田、その他関東の地場産が占めるようになった。関東産の醤油が下り醤油を駆逐してしまったのである。

和歌山に行ったならば、醤油発祥の湯浅町に足を延ばしてみよう。ここは熊野古道のルート上にあり、古くから海運で賑わった町でもある。近世から近代にかけて建造された古い町並みは、重要伝統的建造物保存地区に指定されている。なおかつそこに今も営業する食堂や喫茶店などの生活感が混じり、街並みを散歩すること自体が観光である。

平成29年には「最初の一滴~醤油醸造発祥の地」として日本遺産に登録されている。町には醤油屋と金山寺味噌屋が数軒ある。

昔は醤油を大仙堀から小舟に乗せて沖の大きな船に運んだ。

今も残る醤油屋「角長」と大仙掘

湯浅には今でも醤油屋が数件残っているが、その中でも重要伝統的建造物保存地区にある天保12(1840)年創業の角長(かどちょう)は醤油のふるさととして、今も昔ながらの製法で醤油を製造し、その製造法を伝えるための資料館を設けている。グルメを自負し、うんちくを語りたい人はここで醤油の歴史を体験しておくべきだろう。

「角長」の醤油資料館では醤油づくりの道具が展示されている

湯浅町はシラスで有名な漁港でもある。町の食堂ではシラス丼が食べられる食堂マップを配布している。湘南出身でシラス丼が大好物の友人がいるが、湯浅の生シラスは大振りで食感が良いのだそうだ。シラスを生で食べられるのは生産地だけ。特別に美味しいから是非食べることをお勧めする。

産地でしか食べられない生シラス。写真は「かどや食堂」

夕食は和歌山市内の「鰻 心艶(しえん)」でいただいた。広く知られていることだが、関東の鰻は背開きで焼いて蒸して焼くという調理行程である。お箸でスッと切れるような柔らかい食感が高品質の証である。一方で関西の鰻は腹開きで、そのまま焼いてたれをつけて再び焼くパリパリの食感が特徴である。個人的嗜好でいうならば、ご飯が付く鰻丼であれば関東風に軍配、酒の肴であれば関西風もまたよし。和歌山で食べたウナギはパリパリですこぶる美味しかった。

関西の鰻は腹開き。パリパリ食感の白焼きとかば焼き