伊藤忠商事と丸紅を創業した、近江商人の「三方よし」

思わずドヤりたくなる! 歴史の小噺/ 板谷 敏彦

47都道府県、「この県といえばこれ!」というとっておきの歴史の小噺をご紹介する連載です。作者は、証券会社出身の作家・板谷敏彦さん。大の旅行好きで、世界中の主な証券取引所、また日本のほとんどすべての地銀を訪問したこともあるそうです。

第39回は滋賀県。「売り手によし、買い手によし、世間によし」の経営を古くから行ってきた近江商人たちは、多くの大企業を生み出しました。その中でも伊藤忠商事と丸紅は、同じ人物がルーツになっていたそうです。
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「ほどほど都会、ほどほど田舎」の滋賀県は、全国上位の長寿県

滋賀県は日本列島のほぼ真ん中に位置し、中央には日本一大きな湖・琵琶湖を有する。その面積は県の6分の1を占める。そして、周囲を囲む山々から流れ出る117本もの一級河川によって扇状地や三角州が形成され、その上に都市がある。湖から排出される河川は南端の淀川水系の瀬田川と琵琶湖疎水(第14回京都府編を参照)のみで、京阪神地区の重要な水源となっている。

滋賀県は2014年まで全国でも数少ない、人口が増加している県であった。また、近隣の経済圏への交通網による利便性を強みに製造業が盛んで、都道府県別人口は全国26位ながら、製造品出荷額では14位である(経済産業省2020年工業統計調査)。

このほか、温水洗浄便座や食洗器、ノートパソコンの普及率は全国1位(平成26年総務省調査)であり、県民の生活の質が高いことも示唆している。京都・大阪と岐阜・名古屋に挟まれた「ほどほど都会、ほどほど田舎」の環境が暮らしやすいからなのか、令和2年の厚生労働省の調査によれば滋賀県は女性で全国2位、男性で全国1位の長寿県でもある。

東海道や中山道が通る交通の要衝

滋賀県は古くから交通の要衝であった。江戸時代の東海道は、米原を通る新幹線や東名高速道路とは経路が違い、三重県からショートカットして鈴鹿峠を経て琵琶湖に降りてくる(地図上の赤い線)。これは現在の国道1号線にあたる。

一方、米原を経由するルートは、江戸時代には中山道(江戸時代以前は東山道)と呼ばれた(地図上の水色の線)。

東海道と中山道の分岐には草津宿、北國街道と中山道の分岐には米原宿、と宿場町があった。

また古くから琵琶湖舟運も栄えていた。日本海側の敦賀に入荷した北前船の積み荷は、陸路を経て琵琶湖沿岸に運び込まれ、船で大津、米原、近江八幡等へと向かった。

江戸時代の東海道が現在の国道1号線になっている

※この地図はスーパー地形アプリを使用して作成しています。

豊臣秀吉が商業地の基盤をつくる

天正4(1576)年、織田信長が安土城を築くと、城下に商人を集めて楽市楽座の令を公布した。

筆者注:「楽市」とは無税、「楽座」とは商業を独占し既得権益を守る集団の「座」に加盟せずとも商売ができるという政策である。

天下統一を目指した信長は東西交通網の中心地である琵琶湖の沿岸に商業の拠点を築こうとした。

ところが信長は1582年の本能寺の変で滅ぼされてしまう。跡を継いだ秀吉は、信長が築いた安土の城下町を放棄した。そして甥の秀次を近隣の近江八幡に43万石で封じると、安土の商人たちをごっそりと近江八幡に移したのである。かくして商業地としての基盤が近江にできあがった。

安土商人が移ってきた近江八幡の街並み

ユニークな経営方針を掲げた近江商人・忠兵衛

1842年、初代・伊藤忠兵衛は、近江の豊郷村(現豊郷町:五個荘近辺)で繊維製品の小売業を営む「紅長(べんちょう)」に生まれた。15歳で近江の麻布(あさぬの)の持ち下り商い※を始め、1859年、17歳の時には長崎まで足を延ばした。長崎は江戸時代から出島でオランダとのみ貿易をしていたが、開港後、海外との貿易はますます盛んになった。忠兵衛は各国が集まる長崎で刺激を受け、商いの道の無限の可能性を確信する。

※持ち下り商い…遠くまでの行商

ちなみに持ち下り商いをしていた忠兵衛の旅装は軽装で、小ぶりの天秤棒には商品サンプルのみ。商いを決めると後で商品を輸送する。近江商人の典型的な行商スタイルであった。

かくして忠兵衛は、近江麻布を中心に繊維問屋として業容を拡大して、1872(明治5)年には大阪本町へ進出。そして、当時としてはユニークな経営方針を示した。

1)店員の権限と義務の明確化
2)社内会議制度の導入
3)利益3分主義(本家・店・店員)
ーー店の純利益を本家納め、本店積⽴、店員配当の3つに分配した。当時、店員と利益を分かち合うというのは先進的だった
4)運送保険の利用
5)洋式帳簿と学卒の採用
ーー丁稚から育てずに学卒を雇うのは画期的だった
6)貿易業への進出
(伊藤忠兵衛記念館パンフレットより)

このように、革新的な経営と同時に、「商売は菩薩の業」という慈悲の心をもった経営を行った。

従業員に対しても、慈悲心をもって接したと本人が説明している通り、店員の権限と義務を明確化するなど、従業員の人権を認めた行為であったと言えるだろう。

また本家=株主、店=会社、店員=従業員とし、ここに「売り手によし、買い手によし、世間によし」の「三方よし」を加えれば、まさに現代のステークホルダーを意識した経営の先駆的なものであった。

2代目忠兵衛は「産物回しの国際版」を始める

1903(明治36)年に初代忠兵衛が逝去すると、未亡人の八重夫人は跡継ぎに17歳の次男を指名した。大学にも行けるほどの聡明な少年だった。彼が第2代・伊藤忠兵衛である。八重自身も商才のある人で、2代目には5年間ほど丁稚からの下積みをさせ、それが終わると英国へ留学に出した。

2代目は、初代から近江商人としての商いの精神を受け継いだ。

近江商人は、持ち下りで商品を売れば、帰りはそこの特産品を持ち帰り、途中の都市や京都、大阪でもその特選品を売る。実に無駄がない。地元の特産品だけにこだわらない商いは「産物回し」とも呼ばれた。この近江商人の油断のない商いを、江戸時代の浮世草子や人形浄瑠璃の作家・井原西鶴は「のこぎり商い」※と表現した。

※のこぎり商い…のこぎりが、押すと引くとの両方で切るところから、どっちに転んでも利益を得るように商売すること。

2代目は、近江商人の持ち下り商いを国際的な規模で実施。単なる輸入輸出だけでなく、ドイツ製品を韓国で売るなど3国間貿易を始めた。3国間貿易とは、いわば近江商人の「産物回しの国際版」であり、現代の総合商社が行っていることである。

こうして、総合商社としての基礎を築いた2代目忠兵衛は、1918年に伊藤忠商事を、1921年には丸紅商店設立。戦中に一度伊藤忠と合併するが、戦後1949年に丸紅株式会社と伊藤忠商事株式会社が独立して設立される。

この通り、現在の「 伊藤忠商事 」と「 丸紅 」は同じ創業者を持つのである。

商社の基盤をつくった第2代伊藤忠兵衛

近江商人のモットー「三方よし」が生んだ、大企業の数々

伊藤忠兵衛に代表される「近江商人」とは近江に本宅・本店をおき、他国で商いをした商人達を総称したものである。

そしてモットーは「質素倹約」に「しまつしてきばる」。

贅沢をせず、しまつして(無駄なお金を使わずに)、きばって(頑張って)長生きすることを心掛けるという意味である。そのためには利益を継続的に捻出する「売り手によし」、顧客とのリレーションを末永くするために客の便益も考えた「買い手によし」、そして商い自体が世のためになることに加え、利益を社会に還元し、社会貢献を通じて自身の商売の存在意義を世に示す「世間によし」となるのである。「売り手によし、買い手によし、世間によし」は近江商人の商売の極意「三方よし」である。

こうして何代にもわたって持続的な商売が成立する。これは現代課題となっているサステナビリティ経営(「環境・社会・経済」という3つの観点すべてにおいて持続可能な状態を実現する経営のこと)と基本的に同じ性格を持っている。

近江商人博物館のHPにある「現代に活躍する近江商人系企業」には、「 ワコール 」「 ツカモトコーポレーション 」「 高島屋 」「 東洋紡 」などが挙げられている。その他、相互会社として日本生命も近江商人がルーツである。

近江商人のモットーが今日も色褪せないのは、こうした今なお続く大企業が多いからなのであろう。

滋賀のおすすめ観光スポット&グルメ

近江商人発祥の主要な地域は、近江八幡、五個荘、日野(冒頭の地図上、アンダーライン)である。見学できる施設はこの3か所に集まっている。

近江八幡には郷土資料館、歴史民俗資料館、旧伴家住宅、旧西川家住宅がある。西川家は未上場ながら、寝具の老舗・西川株式会社である。創業は1566(永禄9年)と古く、18世紀の終わりごろに「三ツ割銀制度(ボーナス制度の走り)」を始めたことで有名である。

このほか近江八幡には、小舟での堀巡り、八幡山ロープウェーなど観光資源が整っている。

近江商人を今に伝える資料館「近江八幡旧伴家住宅」

昔ながらの屋形船で八幡堀をめぐる

五個荘(ごかしょう)には「東近江市近江商人博物館」といくつかの近江商人屋敷が公開されている。「伊藤忠兵衛記念館」も近隣である。

「伊藤忠兵衛記念館」では総合商社への足跡を辿ることができる

また東近江市は、事故防止の看板として滋賀県内外でよく目にする「飛び出し坊や」の発祥地でもある。

「飛び出し坊や」の発祥は東近江市

日野は今回、時間の関係で訪ねられなかったが、「近江日野商人館」などの観光スポットがある。

近江市街だけなら鉄道で観光することが可能である。東近江、日野を加えるのであれば、車が必要になる。

ランチで「湖香六根 UKA ROKKON」という古民家を利用した地産地消の会席料理店を訪ねた。

入り口を見つけるのは少々難しかったが、もう一度訪ねたいと思わせる未体験の繊細な美味しさを提供してくれた。写真はちまきと鮎の焼き物。ちまきのスープにはスッポンをはじめ18種類、具には8種類の合計26種の食材が投入されている。鮎は遠赤外線で囲炉裏端のように焼き上げている。腹ビレだけで立たせているところなど、相当高度な調理技術だと思う。

その他にも、地産の野菜や近江牛、古代米を混ぜたご飯などを頂いた。凡庸に食べれば凡庸の味かもしれないが、神経を研ぎ澄ませて食すれば違う世界が見えてくる。食体験として是非訪問したい料理店である。

地元の野菜や肉・魚を用い、繊細な美味しさを提供してくれる