明治時代に株式市場の大暴落! 救ったのは「香川県独立の父」

思わずドヤりたくなる! 歴史の小噺/ 板谷 敏彦

47都道府県、「この県といえばこれ!」というとっておきの歴史の小噺をご紹介する連載です。作者は、証券会社出身の作家・板谷敏彦さん。大の旅行好きで、世界中の主な証券取引所、また日本のほとんどすべての地銀を訪問したこともあるそうです。

第40回は香川県。いわずもがな讃岐うどんで有名ですが、47都道府県中、もっとも面積が狭く、もっとも遅くできた県だそう。県として独立するために奔走したのは、大隈重信と政党をつくり、渋沢栄一と経済界も牽引した人物。知る人ぞ知る「香川県独立の父」の活躍に迫ります。
「伊藤忠商事と丸紅を創業した、近江商人の『三方よし』」を読む

水不足の気候が生んだ讃岐うどん

地図上の中央構造線は、第16回の愛媛県でも登場した関東以西の日本を南北に分断する大断層である。香川県の名物讃岐うどんの誕生も、この断層が大きく影響している。

中央構造線上を東の徳島に向かって流れる吉野川は、大昔は瀬戸内海に向かって現在の香川県内を流れていた痕跡を残している。それが300万年程前から構造線のすぐ北で土地の隆起が始まって今の讃岐山脈となり、川の流れが徳島へと変わった。

この讃岐山脈が背後の壁のようにさえぎっているために、香川県には大きな河川ができない。そこに降水量が少ない瀬戸内海地方の気候も重なって、昔から水が不足している。そのため弘法大師(空海)が改修したことで有名なまんのう池を筆頭に、ため池が数多く存在するのである。

この水が少ない気候のおかげで、米のかわりに小麦の生産が盛んになり、製粉してうどんを打つようになった。これに瀬戸内海の塩田による製塩、北海道から大阪へと向かう北前船がもたらす昆布、瀬戸内海伊吹島のいりこ、小豆島の醤油などが加わって、現在の讃岐うどんの隆盛をもたらすことになった。少々乱暴な考察だが、中央構造線がなければ讃岐うどんも無かったかもしれないのだ。

香川県は日本の47都道府県中一番面積が小さい。実は、戦後日本に返還された沖縄を除くと、全都道府県中最後にできた県でもある。そこには県の設立に奔走した人物がいた。元高松藩士、現・香川県の出身の中野武営(なかの たけなか 1848~1918年)である。この人は、株式市場とも縁の深い人だった。

300万年ほど前に讃岐山脈ができて、吉野川の流れが変わった

※この地図はスーパー地形アプリを使用して作成しています。

無茶な命令にも応える! 株式市場の暴落を止めた男

時は遡り1904年の兜町、東京株式取引所の大発会。例年ならば紋付き袴にシャンシャンの手拍子でその年の商い初めを祝うところだ。ところがこの年は日露戦争直前、正月休みの間に日本とロシアの開戦の噂が広がり、株式市場は新年早々売り一色となった。何しろ当時のロシアは西洋の先進国で人口は日本の3倍、広大な土地と強力な軍隊を持つ国である。

当時の株式取引所の管轄は、大蔵省(現財務省)ではなく農商務省(今の農林省と経産省)。東京株式取引所の理事長だった中野武営は、農商務大臣に一喝される。

「ロシアとの開戦で株式が暴落するようでは国際的に面目が立たない、あなたの責任で何とかするように。さもなくば市場は閉鎖する」

暴落を止めろとは、今であれば無茶な命令だが、中野はすぐさま東京一の金持ちと言われた渡辺治右衛門(わたなべ じえもん)の家まで人力車を飛ばして懇願に行った。

「渡辺さん、ここはお国のためだ、ひとつ買い瀬ぎって(買いまくって)市場を助けてもらいたい」

先祖代々の地主というお硬い商売の渡辺は躊躇したが、中野の必死の懇願と、お国のためとの心意気で買い出動した。市場は昨年秋からもうすでに結構下がっていたから、ここがセリング・クライマックスだった。渡辺の買いを見て、市場は一気に強気に反転すると、その後も日露戦争の戦勝とともに高騰を続けたのである。結果、この大発会が明治時代終盤の相場の大底になった。

中野は1887年に東京株式取引所の肝煎(理事)に就任すると、翌年副頭取、その後1900年から1911年まで取引所のトップである理事長を勤めた。東京株式市場揺籃期の恩人である。

また中野は東京株式取引所理事長のほか、東京商業会議所会頭、関西鉄道社長、「 京浜急行 」、田園都市( 東急電鉄 の前身)、「 四国電力 」の設立にも絡んだ。残念ながら、渋沢栄一の陰に隠れてしまって全国的知名度はあまり高くないが、明治大正期の経済界の大立者(おおだてもの)でもある。

故郷「香川県」の独立にも奔走

そして、この中野は「香川県独立の父」とも呼ばれている。

香川県は1871年に一度は設立されるが、その後は名東県(みょうどうけん。現徳島県)や愛媛県による併合が行われ、なかなか讃岐地方としての独自のアイデンティティを確立できなかった。

中野は大隈重信らとともに立憲改進党を創設するような政治家でもあった。讃岐地方がまだ愛媛県の一部だった頃、中野は愛媛県議会議長に選任されると、自分の故郷である香川県の独立(分県)に奔走した。中野にすれば、讃岐山脈を背にする香川の文化は愛媛とは全く異なるものだったのだ。

中野の努力が実り、1888年12月3日に香川県は愛媛県から分離。こうして、日本で最後に誕生した県となった。

香川県は面積で一番小さい県ながら人口密度は11位。救急病院数は全国7位、救急車搬送所要時間は速い方から全国12位、医師や看護師数も全国上位と、医療関係が充実しており、暮らしやすい県でもある。

また筆者の叔母が在住しているが、讃岐は物成(田畑などからの収穫)がよく、うどんだけでなく果物・海産物がとても充実している。他県から送って喜ばれるものが、ほとんどないほどである。

政界・経済界で功績を残した中野武営
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

海運業界の神様、こんぴらさん

もうひとつ、香川県を語るに外せないのが金刀比羅宮である。

香川県と岡山県児島半島との間の瀬戸内海にあるのが塩飽(しわく)諸島、大小28の島からなり、潮の流れが複雑で早いことから、この地に住む船乗りは古くから航海技術に長けた優秀な人材が多かった。そのため初期の北前船の乗組員はこの島の出身者が多く、また勝海舟でおなじみの江戸時代末の遣米使節を乗せた咸臨丸(かんりんまる)の乗組員もほとんどがこの島出身の水夫だったことは有名な話である。

この島の船乗りが航海の目印にしたのが金刀比羅宮(=こんぴらさん)のある山だった。以来時代を経て、こんぴらさんは海運業界の神さまとなり、崇拝の対象であり続けている。

香川のおすすめ観光スポット&グルメ

香川県を訪ねるのであれば、外せないのがこのこんぴらさんの参拝だ。

登りの階段が険しい神社で、御本宮まで785段、奥社までなら1368段もの階段を登らなければならない。しかし途中は途切れなく売店が続き、500段目には意外な楽しみもある。ここでは東京銀座の「 資生堂 」がパーラーとレストランを経営しているのだ。

名前は「神椿」。こんぴらさんが災害に遭った時に、復興支援で出店した。ここには「神椿バーガー」という讃岐牛を使ったここでしか食べられないハンバーガーがある。

讃岐牛を使った神椿バーガーが食べられるのはここだけ

そして讃岐の観光の目玉といえば、なんと言っても讃岐うどんの食べ歩きだろう。1日で5、6軒回るのはザラである。香川県は東西に広がってはいるが、決して広い県ではないので、移動は比較的容易だ。

うどんの有名店は分散しているので、レンタカーで移動するもよし、「うどんタクシー」を利用するのもよし。うどんタクシーはうどん屋にめちゃくちゃ詳しいドライバーが、ミニ・ツアーでうどん屋巡りをしてくれる。多くの店はお昼時に開店して、午後には売り切れで閉めてしまうが、朝、夜それぞれ開いている店もあるので訪問スケジュール作成には事前のチェックは重要だ。

観音寺市の「うどんや カマ喜ri」のうどんは顔の形で提供される

もうひとつ紹介しておきたいグルメが丸亀名物の骨付き鶏だ。鶏の骨付もも肉をニンニクの効いたスパイスで味付けしてオーブンで焼くのが特徴。基本的に親鳥と若鶏の二種類があり、驚くほど食感が違うので是非試してほしい。全国でも丸亀でしか食べられない個性的な焼き鶏である。

丸亀で食べ比べしてほしい焼き鶏。写真は「炭火焼とり わきや」のもの