日本人が、自分たちは「日本人」だと意識したのはいつごろか?

投資がもっと楽しくなる!日興フロッギー選書/ クロスメディア・パブリッシング角田 陽一郎

投資や資産形成をもっと楽しくするためにピッタリの書籍を、著者の方とともにご紹介する本連載。今回は、「地理」を知り、また日本史との関わりを考えることで、「日本」や「日本人」を深くとらえ、さまざまな形で投資に活かす教養としていきたいと思います。元TBSのプロデューサーで数多くのヒット番組を手掛け、地理や歴史関連の著作も多い角田陽一郎さんと見ていきましょう。[PR]

学校で習う「日本史」は本当に日本史なのか?

まずは「日本史」と聞いて、皆さんはどこの国の歴史だと想像しますか? 当然「日本」の歴史だと思うはずです。

しかし、よく考えてみてください。私たちがこれまで学校で習ってきた、教科としての「日本史」は、日本という国がこれまで経験してきた、政治的、ないし文化的な出来事の記述で構成されているはずです。ただ、それらの出来事のほとんどは「勝者の目線」で書かれた史料に基づいているのです。そのため、政争に敗れた「敗者側の事情」や、市井の文化を担った「一般の民衆」の生活などについては、あまり記されていないともいわれます。

また、政治情勢は、奈良や京都といった、主に天皇の住まわれる場所や、鎌倉や江戸など、幕府の置かれた場所を中心として記述されています。

つまり、ごく一般の町や村が、日本史の中に詳細に描かれることはほとんどないのです。

このような記述の仕方は、どこかおかしくないでしょうか? 「日本史」と謳うからには、現在の日本を形成している地理の要素のすべてが網羅されていなければならないのですから。

しかし、現実にはそうなっていません。しかも、今はどうか定かではありませんが、私が学生だったころなどは、学校の授業の進み具合によっては、現代史を教えてもらう時間はそれまでの時代に比べてほんのわずかでした。

これでは、日本史を正確に理解することなど、できるはずもありません。そういう意味では、「日本史」とは言うものの、完全な日本史ではないと言いたくなってしまいます。

私たちのご先祖様は何人だったのだろう?

さらに、「日本人」というものを考える際に、こんな問いを立てることも可能です。

「かつての日本に住んでいた人たちは、果たして自分たちを〈日本人〉だと認識していたのか?」

近代日本が始まったのは、明治時代になった19世紀後半以降のことです。今でこそ日本は47の都道府県で区分されていますが、昔は上総国、三河国、信濃国、備中国、薩摩国など、いわゆる「令制国(りょうせいこく)」による区分で分けられていました。

おそらく、日本の歴史における大部分の時代、私たちの祖先は、そのような「国」こそが「自分たちが住む地域」のほぼすべてであり、「自分の帰属している〈国〉」であるというアイデンティティを持っていたのではないでしょうか。

それが、19世紀半ばに明治維新が成立したことにより、日本列島という空間に暮らす人々は、天皇をいただく政治体制のもと、「日本人」という帰属意識を持たされることになりました。今につながる「日本史」が研究され、形づくられるのはこれ以降のことですし、「〈日本人〉としての帰属意識を持つべきだという政策を諸々施した」のが明治維新の真実だとも言えます。

ちなみに、なぜ日本人は明治以降、「信濃人」や「薩摩人」に分裂せず、「日本国」という1つの国でまとまって「日本人」となることができたのでしょうか? それは、単純な話ですが、「日本が周囲を海に囲まれた島国だから」だと言えます。

日本国は、決して広い面積を持っているとは言えません。世界に200カ国近くあるうち、面積のランキングは61位です。しかし、日本が有する「島国」という特色は、他の国がほとんど持っていない、特異なアドバンテージです。

その国の支配権が及んでいる海洋のことを「排他的経済水域」と言いますが、国の四方を海に囲まれている日本は、「領海および排他的経済水域の面積」でいうと、なんと世界で6位なのです(体積ではさらにランキングが上がり、世界4位になります)。さらに、日本は海岸線が異常に長い国でもあり、こちらも世界6位とされています。これらのことから考えると、日本はまさに世界有数の「海洋国家」です。

そんな地理空間を持つ日本は、幕末、ロシアやアメリカという外国からの侵略に直面した際、内側でまとまりやすい特徴を持っていたのです。もしも、日本がユーラシア大陸の内陸にある国だったならば、十数年前のアフガニスタンのように、国内が信濃人、薩摩人、土佐人など、郷土ごとに分裂していたかもしれません。

このように、日本にとって海とは重要な地理的要素です。にもかかわらず、日本人の多くはこの事実にあまり意識を向けていないのが現実です。

私たちの祖先はどこから来たのか

さて、今度は日本史を先史時代からたどってみることにします。約20万年前には、現在生存している人類(ホモ・サピエンス)の共通の祖先が、東アフリカの「大地溝帯」と呼ばれる場所にいたといわれています。

人類は狩猟や採集をしながらアフリカを離れ、世界各地に移動を続けました。その頃、地球は寒冷化しており、今いる場所が住みにくくなると次の場所を探して移動していたといいます。それを何世代にもわたって繰り返した人類は、アフリカを飛び出して、中東、ヨーロッパ、東アジアへと旅することになりました。

その頃になると、地球は氷河期を迎えて、海水面が現在よりも低かったといわれており、シベリアとアラスカは地続きでした。日本も例外ではなく、中国大陸や朝鮮半島とは地続きで、日本海は湖でした。だから、中国大陸から日本へ渡るのが容易だったのです。

こうして人類が日本へたどり着いたのは、旧石器時代と呼ばれる約4万年前のこととされています。現在の朝鮮半島、沿海州、サハリン経由で、西や北から原日本人となる人々が渡来してきました。

また、沖縄県では1万8000年前のものとされる人骨が発見されていますが、骨の特徴から、南方から海を渡って日本列島へやって来たものと推測されています。

この頃の時代を先土器時代と呼びます。なぜ先土器時代と呼ぶのかというと、その後の時代を「土器が発掘された」ことから「土器の時代」と定義したからです。

信長や龍馬は縄文時代を知っていたのか?

土器の時代は縄文時代と弥生時代とに分けられます。縄文式土器の命名者はアメリカ人の動物学者エドワード・S・モースです。1877年、東京の大森で彼が発見した貝塚から出土した土器に縄でつけた文様があったことから「縄文式土器」と名付け、その土器をつくっていた時代だから縄文時代と命名されました。

ちなみに、縄文時代に続く、紀元前3世紀から3世紀頃まで、日本史で2番目に長い時代が弥生時代です。この名前は、これまた東京の、現在、東京大学のある文京区弥生で1884年に土器が発掘されたことが由来です。

縄文時代は約1万5000年前から約2300年前(紀元前3世紀頃)までの、けっこう長い時代です。それを私たち日本人が意識し始めたのは、モースが大森貝塚から縄文式土器を発掘してから数えて、150年も経っていません。

言うなれば、日本史の中で一番長い時代であるにもかかわらず、織田信長も徳川家康も坂本龍馬も、縄文時代を知らなかったということです。

もともと教養という言葉は、「教養する」という動詞で、〈結果〉ではなく、〈プロセス〉であるといいます。ここまで述べた「歴史上の日本人の多くは、縄文時代を知らないし、日本人という意識もなかった」という些細な事実に気づくことが、地理を「教養する」時には重要な要素となります。

・自分とは異なる時代に生きた人が、その時どう思っていたか?
・どこまで知っていて、何を知らなかったのか?
・何を当たり前と感じ、何に違和感を覚えていたのか?

これらを考慮に入れず、現代に生きる私たちが、私たちの目線や常識でかつての時代を判断すると、だいぶ歴史を曲解してしまう危険をはらんでしまいます。

そのため、まず私たちは、その当時に生きていた人々の気持ちになって、思考を巡らせてみる必要があるでしょう。そして、思考を古の時代から現代へとタイムスリップさせた時に、今までとは違う、あなたなりの日本人の捉え方ができるかもしれません。

それが、私たちが地理を「教養する」上での、一番の本質なのだと思います。

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