大航海時代、石見の銀はアジアからヨーロッパまで広がった

思わずドヤりたくなる! 歴史の小噺/ 板谷 敏彦

47都道府県、「この県といえばこれ!」というとっておきの歴史の小噺をご紹介する連載です。作者は、証券会社出身の作家・板谷敏彦さん。大の旅行好きで、世界中の主な証券取引所、また日本のほとんどすべての地銀を訪問したこともあるそうです。

第42回は島根県。2007年に世界遺産として登録された石見銀山。なぜ日本の銀山が世界遺産として登録されたのか。その理由をひも解くと、日本と世界をつなぐ歴史がありました。
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山陰地方という呼び名は「陰陽論」から

古代中国に発する「陰陽論」は自然界のすべてのものを「陰」と「陽」の相反する二つの要素でとらえるもので、「山の南は陽、北は陰」と考える。

昔の日本ではこれを取り入れ、中国山地を境に南を山陽道、北を山陰道と決めた。これが現在の山陰地方という呼び名になっている。

島根県の南を走る中国山地は、中国地方の日本海側寄りに連なっているため、県の土地は東西に長く南北に狭い。河川の多くは近接する中国山地を水源としているので、流域が短く、山間の狭い地帯を流れているものが多い。そのため、県の平野部は松江や出雲など宍道湖方面に集中している。県域は東の出雲、西の石見、隠岐諸島の3地域からなる。

島根県推計人口月報(令和5年10月1日)によると島根県の人口は64万9235人、うち松江市(19万9023人)と出雲市(17万927人)の2都市で全体の57%を占めている。

島根県は東の出雲、西の石見、隠岐諸島の3つの地域からなる

※この地図はスーパー地形アプリを使用して作成しています。

アメリカ大陸発見で銀貨が増えたヨーロッパ

今回は島根県大田市にある石見銀山にスポットをあてたい。石見銀山は、2007年に鉱山遺跡としてはアジアで初めて登録された世界遺産である。なぜ日本の銀山が世界遺産として登録認定されたのか、本題に入る前に少し世界史をひも解いてみよう。

西洋史ではコロンブスによるアメリカ大陸発見の年は1492年とされている。そして、1497年にはカボットが北米ニューファンドランドからフロリダを経由してイングランドへ帰還。また同年にはバスコ・ダ・ガマがインド洋に向かい、1500年にはカブラルがブラジルに到達している。

こうして、15世紀終わりの数年の間に、西洋人から見た世界は一気に広がったのだった。英語では“Age of Discovery(発見の時代)”と呼ぶが、これでは既にその土地で文明を持っていた人たちに失礼だ。そこで日本人の学者が名付けたのが「大航海時代」という言葉である。これは日本だけのオリジナルな言い方である。

歴史に戻ると、1521年にはコルテスがアステカ王国を征服、1532年にはピサロがインカ帝国を滅亡させた。その後、1545年に現在のボリビアでポトシ銀山、その翌年にメキシコでサカテカス銀山を発見した。銀山へスペイン人が殺到し、ポトシでは標高4000メートルの山の中にもかかわらず、にわかに人口16万人の大都市ができあがった。

1557年に水銀を使って銀を採取する方法が開発されると、銀の生産量は飛躍的に増大し、ヨーロッパに流れ込んだ。突然、貨幣量(銀貨)が増えたためにヨーロッパの物価は数倍に上昇した。この物価上昇は銀による「価格革命」と呼ばれる。

筆者注:上記は少し古い話で、最近では当時の物価上昇は銀の流入ではなく16世紀の人口増加によるところが多いという説が有力である。かように世界史は進化しているのだ。

ポルトガル人によって世界へ広まった石見の銀

さて、島根県。1526年、ヨーロッパへの銀の流入が始まる少し前、出雲の国へ銅を仕入れに行くために石見の沖を航海していた博多の商人・神屋寿禎(かみやじゅてい 第35回福岡県参照)は山に光るものを見つけた。これが地表に露頭していた石見銀山の一部だった。神屋は翌年から採掘を開始した。

当時、室町時代の石見の支配者は、守護大名の大内氏で、博多を拠点に日明貿易をしていた。当初は原鉱石をわざわざ博多まで運んで銀に精鉱していた。しかし、1533年に灰吹(はいふき)法と呼ばれる鉛を使う精鉱技術が開発されると、石見で銀を精鉱できるようになり、輸送の負担が一気に減った。

戦国時代になると、石見の支配者は大内氏から小笠原氏、尼子氏へと移り変わっていった。さらに1562年に毛利氏が支配するようになると、銀の積出港は鞆ヶ浦(ともがうら)から外敵から襲撃を防ぎやすい温泉津(ゆのつ)へと変わった。

銀は博多へ運ばれて、絹や火薬、鉄砲の輸入代金となり、明や当時アジアに進出してきたポルトガル人によって世界へと広まっていった。一時は世界で産出された銀の約3分の1を日本の銀が占め、そのほとんどが石見の銀だったという。

また1500年代後半に世界中で取引された銀の総量のうち、少なくとも10%は石見銀山のものであったと推測されている。石見は16世紀に世界でにわかに起こった銀産出ブームの主役のひとつだったのだ。

江戸時代になって徳川幕府が鎖国政策をとると、銀の輸出が禁止された。すると石見の銀は、日本海側から瀬戸内海側へつながる銀山街道を通って、尾道まで搬送されるようになる。尾道からは船で伏見銀座(後に京都銀座)まで運ばれ、貨幣に加工されたのである。

※編集部注:銀座とは銀貨を鋳造する役所のこと

「東国の金遣い、西国の銀遣い」

江戸時代に言われた「東国の金遣い、西国の銀遣い」とは、東では大判小判など金貨が使われ、西では銀貨が使用されたことを指す。石見の銀生産が大量の銀を西国にもたらしたのだろう。

明治期以降の石見銀山は銀鉱脈が枯渇し、代わりに銅が採掘されたが、1923年に休山。太平洋戦争中に一時復活したが、1943年に完全に閉山となった。

植林のおかげで保存された石見の鉱山遺跡

世界遺産としての石見銀山の価値は以下の通りだ。

1.アジアやヨーロッパ諸国の経済や文化の交流に影響を与えた
2.銀生産に関する遺跡が豊富で良好な状態が保たれている
3.積出港や街道などが、自然環境と一体となり、現在に残されている。鉱山の遺跡は、精錬時の火力として使うため木々が伐採されてはげ山となっているケースが多いのだが、石見では植林をするなど環境への配慮がなされていた

石見銀山は時代の変遷にともなって、エリアに多くの集落が形成された。その中でも江戸時代に奉行所がおかれた大森地区は、現在でも住民たちが日常生活を送り、観光資源として高い文化的水準を維持している。

綺麗に整えられた集落沿いに山の道を登っていけば、古(いにしえ)の鉱山の活気が脳裏によみがえる。ここで採掘された銀が、博多商人によって博多へと運ばれて、ポルトガル商人の手に渡り世界へと広がっていった。当時、石見の名は世界に知られていたのだ。日本史と世界史がつながる石見銀山。だからこそ世界遺産にふさわしい。

自然環境と一体になって残る、石見銀山遺跡

島根のおすすめ観光スポット&グルメ

石見銀山の観光スポットは、銀山街道や銀の積出港などを含めて数多くあるが、主なものは古い町並みを残す大森地区と、その近くにある博物館的な存在の「石見銀山世界遺跡センター」である。

両者は公共交通機関を使えばJR大田市駅と結ばれており、車でなくても十分に回ることができる。

大森地区は江戸時代の奉行所があったところで、地区の北端にある奉行所跡は「いも代官ミュージアム」と呼ばれている。この呼び名は井戸平左衛門(いど へいざえもん)という代官が、薩摩からサツマイモの種イモを取り寄せて住民を飢饉から救ったことにちなんでいる。館内には大森地区関係の資料が展示されていて、ここが観光の起点となる。
大森地区には、古い街並みや商店、選鉱場跡、鉱山入り口である龍源寺間歩など見るべきスポットがたくさんある。だが、山の中腹で傾斜がある上に、直線距離でも片道3キロはあることから、覚悟をしてトレッキングするか、あるいは電動自転車を借りるのが得策である。

大森地区には、メディカル・アートや義肢装具を製作する「中村ブレイス」の本社がある。同社の創業者である、中村俊郎氏は大森地区出身で、私財を投じて大森地区の約60軒の古民家の再生活動に取り組んでいる。ここは遺産の町であるだけではなく、若者が集まり活気づく現役の町でもある。

若い洒落た人も店を出している。例えば中華料理の「道楽」は繁盛店で、予約なしでの入店はなかなか難しい。上湯(シャンタン)のラーメンは、まさに高級中華そのもので、絶品の域であった。一般的な観光地の食堂とは違うのだ。

「道楽」は平日でも予約で満席という人気ぶり

また、パン・菓子を製造販売する「アイス&カフェ ベッカライ コンディトライ ヒダカ」は、島根県雲南市にある木次(きすき)乳業の美味しい低温殺菌牛乳を100%使用したジェラート類の種類が充実している。筆者は鉱山跡見学の行きと帰りに2度も訪問してしまった。こうしたショップや食堂に限らず、どの施設も洗面所も含めて清潔に保たれている。

店名はドイツ語で「パン屋お菓子屋 ヒダカ」と言う意味

島根のグルメは県庁所在地の松江が充実している。

松江の繁華街は宍道湖(しんじこ)と中海(なかうみ)を結ぶ大橋川を挟んで、JR松江駅側の伊勢宮町と川の北側の東本町からなる。

新大橋から望む東本町の繁華街

伊勢宮町にある「旬菜郷土料理 一隆」では島根の美味しい魚が食べられる。いつも満席だから予約が必須である。

奥出雲の上質な食材を使った郷土料理を楽しめる

またこちらでは美味しい出雲そばが食べられるので、食後の〆に他の蕎麦屋に行く必要がない。

食事の〆に、手打ち出雲そばや仁多米おむすびを

橋を渡った東本町にある老舗バー「山小舎(やまごや)」は昭和32年創業、バーテンダーが高い技術を持つオーセンティックなショット・バーである。扉にあるサントリーのトレードマークは、この店が昔トリス・バーだった頃の名残だ。日本全国でも最古参のバーである。

煉瓦造りの店構えで、天井に杉皮、壁には杉木を使用している