明治時代から続く銀行がない!? 銀行の歴史は鳥取にあった

思わずドヤりたくなる! 歴史の小噺/ 板谷 敏彦

47都道府県、「この県といえばこれ!」というとっておきの歴史の小噺をご紹介する連載です。作者は、証券会社出身の作家・板谷敏彦さん。大の旅行好きで、世界中の主な証券取引所、また日本のほとんどすべての地銀を訪問したこともあるそうです。

第44回は鳥取県。じつは鳥取県には、日本の銀行制度がはじまった明治初期から続く銀行が存在しません。その歴史をたどってみると、日本の銀行の成り立ちが分かるそうです。
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鳥取藩独自の制度で、5人の家老に統治を任せていた

鳥取県は東西に長く南北に狭い。北は日本海に面し、南は中国山地の北斜面となっているため、山地が多く平野が少ない地形となっている。

平野部は県の三大河川と呼ばれる千代(せんだい)川、天神川、日野川沿いに形成されている。それぞれの流域には、東から県庁所在地の鳥取市、蔵の町・倉吉市、米子市の各都市がある。県内の市はこれに境港(さかいみなと)市を加えた4市で、後は町村である。

鳥取県は江戸時代の鳥取藩の領地と重なる。池田氏が治めた鳥取藩は、石高が32万5000石もある大藩で、鳥取市にあった因幡(いなば)国と米子市にあった伯耆(ほうき)国の2国からなっていた。

ゆえに、一国一城令(注:江戸時代、居城以外の城を破却するようとした命令)にもかかわらず、鳥取藩は特例で鳥取城と米子城を有することを認められていた。

また、藩領が東西に約130kmもあった鳥取藩は、地域を5つに分割して、家老職に統治を任せる独自の分地制度「自分手政治」を用いた。西から米子を荒尾氏、八橋(やばせ)を津田氏、倉吉は別の荒尾氏、松崎を和田氏、浦富(うらどめ)を鵜殿氏にそれぞれ統治させた。

米子城があった米子市や、城下町でもない倉吉市に独自の文化が残っているのも、このかつての「自分手政治」の影響である。

鳥取、倉吉、米子は徳島県3大河川沿いにある

※この地図はスーパー地形アプリを使用して作成しています。

番号が名前についた「国立銀行」が都銀・地銀の基礎となった

鳥取県は日本の銀行史を振り返るのにちょうど良い教材である。今回は、日本の銀行制度を振り返りながら、鳥取県の銀行史を見ていきたい。

日本に銀行制度が始まったのは、明治5(1872)年制定の「国立銀行条例」からだ。翌年、この条例によって渋沢栄一が関わった日本初の銀行である第一国立銀行をはじめ、第二、第四、第五と4つの国立銀行が設立された。第三は遅れて設立した。

この「国立銀行」という用語はまぎらわしい。これは、「交換できる金(きん)を準備することで紙幣を発行できる銀行」を意味し、あくまで民間の企業である。米国の制度を真似たのだが、そのとき米国の銀行法“National bank act”を「国立銀行法」と邦訳した。しかし本来は、「州ではなく国の法律を根拠とする銀行」という意味であったので「国法銀行」と訳されるべきものだった。

政府に、近代国家の建設には産業に資本を供給する銀行制度が必要だとの認識はあったが、見通しは甘かった。手本となった米国の銀行のように、日本各地にもっと多くの発券銀行が設立されると政府は予想していたが、当時の日本では準備に必要な民間の貯蓄が不足していた。

当時世界の先進国でも、のちの英仏のような発券銀行を一行に絞る中央銀行制度か、あるいは米国のような分権的な制度が良いのか、試行錯誤の時期であった。しかし米国の制度を真似るにしても4行では足りない。これを解決したのが、明治9年の秩禄(ちつろく)処分である。

成立当初の明治政府は、歳入の3分の1を旧武士への禄(給料)の支払いに充てていた。警察制度や軍隊がスタートしていた日本では、武装しているくせに何もしない武士の存在は邪魔でしかなかった。

そこで、毎年の禄の代わりに公債(金禄公債証書)を発行して一時金として渡すことで、縁を切ることにしたのである。廃刀令も同年に出され、武士の時代の終焉となった。これらが神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、西南戦争の起点となったことは歴史で習ったとおりだ。

この時、政府は国立銀行条例を改正し、「金(きん)だけ」としていた資本金を「金禄公債による出資でも構わない」とした。これによって、全国の有力な旧藩の士族団が金禄公債を持ち寄り、全国で銀行が設立されることになった。その結果、明治12年までの3年間に第百五十三国立銀行まで設立されるに至ったのである。

これらは「ナンバー銀行」と呼ばれて、今日の都銀、地方銀行の基礎となっている。第四北越銀行(新潟)、十六銀行(岐阜)、十八親和銀行(長崎)、七十七(しちじゅうしち)銀行(宮城)、百五銀行(三重)、百十四(ひゃくじゅうし)銀行(高松)など、当時の名前を今に伝えている銀行もある。因みに長野県の八十二銀行は、合併した第六十三銀行と第十九銀行を足し算したものである。

西南戦争の戦費調達のために、各地の国立銀行が紙幣を乱発したことで、インフレが進んだ。このインフレ対策として明治15年に日本銀行が開業し、明治17年には紙幣を発行できるのは日本銀行だけとした。米国の制度ではなく英仏のように中央銀行制度を採用することにしたのである。

153の国立銀行は猶予期間を経て全て普通銀行に転換され、日本銀行だけが紙幣を発行することになって、現在に至っている。

鳥取県に銀行制度が始まってから続く銀行がないワケ

前述のように鳥取藩は大藩であった。国立銀行条例の改正を機に元藩士の豊富な金禄公債を原資にして、第六十五銀行と第八十二銀行の2つの銀行が誕生した。2つ設立されたのは、元藩士のなかに主流派と反主流派があり、反目していたからである。

また鳥取藩から選抜されて米国留学を経験していた元藩士・原六郎は東京で第百銀行を設立した。これは藩の主流派による第八十二銀行と人的関係が深いものであった。

しかし、鳥取県は産業の近代化が遅れていて、これらの銀行は融資先に恵まれなかった。第六十五銀行は設立3年ほどで経営が悪化したため、神戸へと転出し、大正時代に日本一の年商を誇った総合商社・鈴木商店の傘下に入った。

第八十二銀行も明治20年代には経営不振に陥ってしまう。追い打ちをかけるように、国立銀行として紙幣発行もできなくなる。安田善次郎の救済を受けることで鳥取、倉吉、米子、境の四つの支店は残ったが、本店は東京へと移動して安田傘下に入ってしまった。

かくして鳥取県を本店とする国立銀行はなくなってしまったのである。これは全国の都道府県でも珍しいケースである。

一方、私立銀行としては、地方財閥である坂口家が明治27年に米子銀行を設立する。境港の輸出入や、阪神地区との為替業務が繁盛した。昭和11年にはこの1行だけが鳥取県発祥の銀行として生き残っていたが、上半期末の預金量の県内シェアは24%に過ぎず、安田銀行や隣県の松江銀行の支店にも追いつかなかったのだ。

昭和11年の広田弘毅内閣から、戦時体制下の国債消化の一環として、一県一行体制が基本方針となった。「地方銀行は一県に一行に集約しろ」というのだ。各都道府県で集約が進んだ。

鳥取県でも営業エリアが重なっていた松江銀行が米子銀行を合併して現在の山陰合同銀行になった。かくして鳥取県は第二次世界大戦当時、県内に本店を構える銀行がない都道府県となったのである。

なお、現在の第一地銀である鳥取銀行は大正10年設立の鳥取貯蓄銀行が前身であるものの、設立は戦後の昭和24年である。他県の県庁所在地にある銀行と比較すると、預金量は多くない。

なぜ鳥取県には、日本の銀行制度が開始して以来今日までつづく銀行が存在しないのか。その疑問を解こうとすると「国立銀行条例」や中央銀行、一県一行体制など、日本の銀行史を知ることになるのである。

参考:『日本地方金融史』日本経済新聞(編集)、地方金融史研究会(著)

鳥取のおすすめ観光スポット&グルメ

鳥取の見所は何といっても、京都府から兵庫県、鳥取県にまたがる「山陰海岸ユネスコ世界ジオパーク」の鳥取県部分だろう。具体的には鳥取砂丘と浦富海岸である。

なぜここに大きな砂丘ができたのかは、訪問した時のお楽しみとしておきたい。付近には、その謎を解くビジターセンターや鳥取砂丘と日本海を一望できる眺望テラスなど、観光施設が充実している。

さらに最近では周辺にお洒落な飲食店なども増えている。砂丘を海岸まで往復すると結構疲れるので、喉を潤すのに丁度良いだろう。

鳥取県はかつてスターバックス不在の県だった。「スタバはないがスナバ(砂場)はある」という平井鳥取県知事の発言から、作ったといわれる「すなば珈琲」が有名で、コーヒー抽出のレベルは高い。県民は美味しいコーヒーを飲んでいる。

写真は隈研吾氏設計の「タカハマカフェ」である。店内に砂丘を眺望できるテラス席を設けたりと、リラックスするための工夫がなされている。

テラス席で鳥取砂丘を眺望できる「タカハマカフェ」

浦富海岸は鳥取県の東端から15kmほどつづくリアス海岸である。断崖絶壁や洞門・洞窟・奇岩のダイナミックな地形にあふれている景勝地を観光船で見ることができる。

写真は浦富海岸のシンボルともいえる「千貫松島」だ。規則性のある割れ目を持つ柱状節理(ちゅうじょうせつり)の花崗岩に穴が開いたトンネル状の海蝕洞門、その上には松の木が生えている。

江戸時代、鳥取藩主の池田綱清(つなきよ)がここで舟遊びをした際、美しさに感激し、「わが庭にこの岩つきの松を移すことができた者に、禄千貫を与えよう」と言ったのが由来なのだそうだ。

「千貫松島」は浦富海岸のシンボル

砂丘地帯での耕作に適した「らっきょう」は鳥取の名産品である。そのせいか鳥取市にはカレー屋が多い。写真は名物・鳥取カレーのひとつで、県庁の最上階にある食堂の「県庁カツカレー」である。

県庁の最上階で食べられる「県庁カツカレー」

県庁は鳥取城址に隣接している。写真は鳥取城址二の丸跡から見た仁風閣。明治40年に鳥取池田家の第14代当主・池田仲博侯爵が、宮内省匠頭であった片山東熊(とうくま)工学博士に池田家の別邸として設計を依頼した建物で、国の重要文化財である。さらに県立博物館も隣接している。

また米子城址も有名だ。山頂の本丸跡から見る景色は秀峰大山、日本海、市街地、中海などが一望でき、絶景である。

鳥取池田家の別邸「仁風閣」

あいにく蟹料理の季節ではなかったが、鳥取の魚介類は美味しい。今回、山陰を代表する魚「のどくろ」をいただいた。「味暦(あじごよみ)あんべ」は、予約必須である。

山陰を代表する魚「のどくろ」

「バー・スタイル」は鳥取を代表するオーセンティックなバーである。「倉吉」は鳥取県の「松井酒造」倉吉蒸留所を代表するモルト・ウイスキー。レーズン、ナッツ、バニラ香、くせの少ない爽やかな飲み口である。

「倉吉」は厳選したモルト原酒のみを使ったモルト・ウイスキー