大空襲で合併話がうやむやに! 今も競い合う岐阜の有力地銀

思わずドヤりたくなる! 歴史の小噺/ 板谷 敏彦

47都道府県、「この県といえばこれ!」というとっておきの歴史の小噺をご紹介する連載です。作者は、証券会社出身の作家・板谷敏彦さん。大の旅行好きで、世界中の主な証券取引所、また日本のほとんどすべての地銀を訪問したこともあるそうです。

第45回は岐阜県。織田信長が天下統一を目指したとされる地で、今も競い合う十六銀行と大垣共立銀行。この有力地銀2行には、戦時中、合併の話があったといいます。
「明治時代から続く銀行がない!? 銀行の歴史は鳥取にあった」を読む

「西美濃」に岐阜県の平野部は集中している

岐阜県は旧飛騨国と美濃国を県域とし、周囲を三重、滋賀、福井、石川、富山、長野、愛知の7県に接する海のない内陸県である。

岐阜県は、「飛山濃水(ひさんのうすい)」の地と呼ばれてきた。その名の通り、飛騨は北アルプスの山々がそびえ立つ山岳地帯であり、美濃は木曽川、長良川、揖斐(いび)川の3つの河川が流れる肥沃な平野部となっている。平野部は全県域の12%で、主に西美濃に集中している。

西美濃とは、大垣市を中心とする岐阜の西部エリアを指す。

滋賀県との県境には東西天下分け目の決戦があった関ヶ原があり、飛騨街道や中山道が走る交通の要衝でもある。

福井県出身の第31代内閣総理大臣の岡田啓介は、鉄道ができる以前、雪をかきわけて大垣まで達すると、そこから舟に乗って三重県四日市まで出て横浜行きの蒸気船に乗ったと『岡田啓介回顧録』に書き残している。大垣は、河川交通の陸の湊(みなと)として機能していた。

県外の人にとって東海道新幹線の岐阜羽島駅は馴染みが薄い。岐阜や西美濃へは、岐阜羽島駅が最も近いのだが、名古屋からはJR快速で20分なのに対し、岐阜羽島からは名鉄で35分かかってしまう。名古屋と岐阜羽島の各駅に停車する新幹線の本数もあわせて考えると、これは仕方のないことだろう。

美濃は、昔から東西交通の要衝だった

※この地図はスーパー地形アプリを使用して作成しています。

織田信長が「岐阜」の名づけ親

尾張の小大名だった織田信長は、美濃を平定し、名古屋の小牧山城から現・岐阜市の稲葉山城に本拠地を移した。古代中国の周王朝で、岐山に都を置いた文王が天下を平定したという故事に因んで、城と町の名を「岐阜」と改めた。「阜」は山の意味である。

信長はこの頃から「天下布武」の朱印を用いるようになった。「天下布武」とは天下に武力を布くという意味で、これまで信長の天下取りの野望の象徴のように解釈されてきた。

だが、この朱印を押した書状を当時の同盟者である上杉謙信にも送っていたことから、最近の研究では「京都畿内に幕府を再興します」という意味だったのだろうと解釈されている。それでも信長は、京都畿内に近い美濃を地理的な天下の中心地と捉えていたのだろう。

旧ナンバー銀行を前身とする2つの銀行が残る岐阜県

戦前、政府の金融行政方針で「一県一行主義」(地方銀行は各都道府県につき一行に集約)が取られた。にもかかわらず、岐阜県にはナンバー銀行(創業時の番号が名前に付いた国立銀行)を前身とする有力地銀が2行残っている。岐阜の十六銀行(前・第十六国立銀行)と、大垣の大垣共立銀行(前・第百二十九国立銀行)である。

地銀の合併などで詳細な基準を設定しにくいが、旧ナンバー銀行が2行残る県は、山形県と岐阜県だけ(都銀を除く)だと私は認識している。今回はなぜそうなったのか、その経緯を見ていこう。

古くから東西日本の要衝だった関ヶ原が近いため、徳川幕府は勢力を持ちうる大藩を美濃には置かなかった。大垣に戸田氏10万石の大垣藩を据えると、その他は天領(江戸幕府の直轄地)を中心に、小藩を配置した。

そのため美濃では他の大藩の地域にみられるような大きな1つの経済圏は形成されず、都市ごとに分割された小さな経済圏が多数存在した。飛騨の中心地・高山も天領であった。

こうした事情から明治時代の秩禄処分をきっかけとする国立銀行設立の際(44話鳥取県編参照)には、美濃の各地でバラバラに国立銀行が設立された。その数は他県に比較して多く、岐阜の第十六、多治見の第四十六、高須(現・海津)の第七十六、八幡(現・郡上八幡)の第百二十八、大垣の第百二十九と5行を数えた。

岐阜の第十六国立銀行は明治10年に創立した。天領のエリアだったので士族からの出資は少なく、発起人は織物業の豪商や地主が占めていたのが特徴である。明治29年に十六銀行と改称している。

一方、大垣の第百二十九国立銀行は明治11年に創立。旧大垣藩重役・戸田氏寛(うじたか)が発起人となり、士族中心の株主構成であった。第百二十九国立銀行の業務を継承する形で、明治29年に大垣共立銀行が創立する。

その後、明治24年の濃尾大震災や、昭和2年の昭和金融恐慌、昭和6年の昭和恐慌などを経て、昭和18年の時点で県内に残った銀行は十六銀行と大垣共立銀行の2行だけとなっていた。

十六銀行は繊維産業の為替業務などをメインに実直な経営をすることで、大垣共立銀行は安田財閥系列に属することで、荒波を乗り越えていった。

時代はやがて日中戦争の戦時下、「一県一行主義」の時代に入る。金融当局から十六銀行との統合を提案された大垣共立銀行の首脳部は、「当時系列だった安田銀行以外とは合併しない」と抵抗していた。しかし、昭和20年にとうとう断念し、十六銀行との合併に応じることになり、合併の書類も当局に提出した。

ところがちょうどそのタイミングで岐阜市と大垣市が太平洋戦争の大空襲に見舞われる。結果、合併がすすまぬまま終戦となった。このため合併問題は自然消滅し、現在の2行体制が続くことになったのである。

大垣共立銀行は1973年に17階建て高層ビルの本店を建設したが、これは俗に第十六銀行を意識したものだとされる。両行は岐阜県指定金融機関の座など、さまざまな局面で現在も競い合っている。

参考:『日本地方金融史』日本経済新聞(編集)、地方金融史研究会(著)

岐阜のおすすめ観光スポット&グルメ

岐阜県は飛騨の高山から、郡上八幡(ぐじょうはちまん)、東美濃の多治見など観光資源が豊富であり、その範囲も広い。そんな中から今回はナンバー銀行が残った岐阜と大垣に絞りたい。両市はJR東海道本線の各駅停車で13分ほどの距離で行き来がしやすい。

岐阜
岐阜は江戸時代には天領だったが、織田信長の天下統一の拠点となった街である。駅前には黄金に輝く織田信長像がある。街の北側には金華山がそびえ、山頂には岐阜城が再現されていて、ぎふ金華山ロープウェーでアクセスすることができる。

またその北東を流れる長良川は鵜飼で有名で、長良川温泉を中心に旅館ホテルが集積している。

JR岐阜駅前で黄金に輝く織田信長像

ロープウェーの山麓駅は岐阜公園内にあり、その近くには「岐阜市歴史博物館」がある。また、岐阜公園は土佐藩出身・板垣退助が遭難した地であり、このとき「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだと言われている。岐阜公園には、板垣の銅像が建立されている。

岐阜は太平洋戦争時の空襲で市街地の約8割が焦土化した。戦後は駅前の焼け野原に満州からの引揚者たちがバラックを建てて衣類の販売を始めた。

ハルピン街とも呼ばれたこの繊維問屋街は、その後も発展を遂げる。東京や大阪に対抗して「岐阜のアパレル」と呼ばれるまでに成長し、1980年前後の最盛期には約1600の既製服卸売業者が軒を並べるまでになった。

思えば、その頃から中国産の衣類が我々の日常に出回るようになり、日本の繊維業者は衰退していったのだろう。現在では、100軒近くにまで減少したが、この街区は今でも駅前近くに残され往時の華やかさを偲ぶことができる。

こうした問屋街で働く人や出張で訪れる人々がいたため、美川憲一の「柳ヶ瀬ブルース」に代表される、岐阜の夜の繁華街「柳ヶ瀬」が隆盛を極めたのである。

また、その当時の名残なのか、岐阜には多くの喫茶店があり、モーニングセットで有名である。

写真は名鉄岐阜駅の近く、喫茶「スピーチバルーン」で、早朝から開店している。トーストに茶碗蒸し(岐阜ではどの店でも付く)、ナポリタン、玉ねぎのカツ、サラダ、フルーツゼリー、これにもちろんコーヒーが付いてたったの500円である。

岐阜のモーニングセットには茶碗蒸しがつく

また岐阜の飲食店の技術水準は総じて高く、中華料理屋「開化亭」は世界中のグルメが訪ねてくるといわれている。予約をして訪れたが、そのクオリティはやはり格別であった。

世界中のグルメが訪れる「開化亭」の鴨肉のロースト

大垣
大垣は、戸田氏10万石の城下町だ。ただし、この城下町は中山道と東海道を結ぶ美濃路の宿場町でもあり、町の中心に街道が通るなど城下町の街区の形成に大きく影響を及ぼしている。また前述の通り、大垣には河川舟運の湊があったので、中山道から伊勢湾までの近道としても使われた。

「奥の細道」を書いた松尾芭蕉は、1689年8月20日に江戸深川の住居を出発すると仙台、松島、平泉、象潟を訪ねた。その後日本海側を南下した後、敦賀を経由して、この大垣にたどりつき、結びの句(最後の俳句)を読んだ。その旅程は150日600里(2400km)に達したという。

そのため、大垣には「奥の細道むすびの地記念館」がある。館内の展示は旅の詳細にわたり非常に充実したものになっている。ちなみに芭蕉は「奥の細道」を終えた後、船で四日市へ出たそうである。

松尾芭蕉は大垣で旅を終えた

また、大垣城は空襲で焼失してしまったが、博物館として再建し、関ヶ原の戦いを中心に展示されている。

関ケ原の戦いを展示する博物館となっている大垣城

城下町なので、街歩きをすればベーカリーや古い和菓子屋などの存在が文化水準の高さを感じさせる。

大垣には、ラーメンとカツ丼で有名な「朝日屋」といううどん屋があり、昼間は行列ができている。筆者が食べたのはカツ丼。卵部分がエスプーマ(ムース状にする料理法)されていた。

伝統の中にモダンが見える。大垣を歩いていてそう思った。

卵がムース状になっている朝日屋のカツ丼