陸海空を制す「静岡の巨人」

読んで分かる「カンブリア宮殿」/ テレビ東京(テレ東BIZ)

カエル先生の一言

この記事は2024年6月27日に「テレ東プラス」で公開された「航空業界・農業にも参入!知られざる静岡の200年企業:読んで分かる「カンブリア宮殿」」を一部編集し、転載したものです。今回、「カンブリア宮殿」に登場されたのは、鈴与グループの八代目鈴木与平代表です。

鈴与グループ 代表 八代目 鈴木 与平(すずき よへい)

陸海空を制す「静岡の巨人」~トップは変化を恐れない八代目

静岡・島田市。4月上旬、SLで有名な静岡の大井川鉄道で静岡県の名所を巡る日帰りツアーがあった。「桜のトンネル」では客が車窓からの花見に大興奮。昼食は「2023年温泉宿ホテル総選挙」ビュッフェ部門で1位となったホテルでいただく。そしてツアーの目玉は高度5000mで富士山の上空を何度も旋回するフライトだ(ツアー料金3万7700円/12歳以上)。

このツアーを企画したのは「フジドリームエアラインズ(FDA)」。「FDA」は静岡を拠点にローカル路線に特化した航空会社で、鈴与の傘下にある。

鈴与の拠点があるのは静岡有数の港町・清水だ。地元で「知らない人はいない」と言う。鈴与は139の会社を抱える巨大グループで、その事業は物流から商社、食品や航空、建設と多岐にわたり、売り上げは4900億円にものぼる。

静岡市清水区の富士川滑空場。グライダーや軽飛行機など、航空スポーツの練習場になっていて、ライセンスを持たない人は遊覧飛行を楽しむこともできる。この場に参加していた最高齢の82歳の男性が、鈴与グループ代表・鈴木与平だ。
清水港の上空を飛び、「ある意味では責任感も感じます。やっぱりこの港を支えていかなきゃいけませんから」と言う。

鈴与の始まりは江戸時代後期の1801年。「清水湊(みなと)」で荷主と船主をつなぐ廻船問屋として創業した。創業者は播磨屋与平で、与平の名は鈴与の当主に代々受け継がれている。現在の与平は八代目だ。もともとの名前は通弘だが、「許可いただいて改名している。だから登記上も今は鈴木与平が本名」と言う。

明治時代に入ると、鈴与は石炭の販売を始める。鉄道の開通にいち早く合わせたことで国内屈指の石炭商になった。昭和初期には、日本で人気のなかったビンチョウマグロを初めてツナ缶にして発売。世界恐慌にあえぐアメリカに輸出し、大ヒットとなった。さらにマグロから抽出した成分で魚由来のインスリンを開発。戦後になると、日本で初めてマヨネーズをチューブに入れて発売。食生活の洋風化を見越してのことだった。
時代に合わせて新たな商売をする。この「変化」こそが鈴与の本質だ。

「時代はどんどん変わっていくから、その変化に戸惑っていたらダメ。結果を見てみると、やはりそういう変化の時にうまく対応できてきた。だから生き残ってきたんだろうと思います」(鈴木)

物流の常識を変える変幻自在~農業にも参入

〇鈴与の変幻自在1「常識を変える新たな物流」

常に時代を先取りする鈴与。現在、売り上げの3分の1を支えているのが物流だ。物流を担うのはグループの中核会社「鈴与株式会社」。売り上げはここ10年ほぼ右肩上がりだ。

東京・銀座の「銀座ロフト」では、毎朝6時に7トントラックで商品を運び入れている。店舗裏の荷下ろしスペースはすぐにいっぱいになる。他の運送会社ならこれで終わりだが、鈴与は売り場のあるフロアまで運び入れる。
「文」と書かれた箱にはノートやペンなどの文房具、「健」と書かれた箱にはマスクなど健康雑貨が入っている。コンテナの中身は、鈴与の物流拠点であらかじめ仕分けしてある。売り場では商品を並べるだけなので、スタッフの手間が省ける。

スタッフは、「自分の売り場の商品しか届かないので、荷捌きのスピードが速くなり、負担も減ったと思います」と言う。

「ロフト」では5年前まで複数の物流会社を使っていたが、7割近くを鈴与に置き換えた。

「ロフトの生命線を維持するのに本当にお世話になっている。鈴与さんあってのロフトです」(「銀座ロフト」館長・千場基晴さん)

一方、静岡・富士市のサプリメントを扱う富士山フロント物流センター。扉の先にはエアシャワーがあり、その奥はクリーンルームになっている。鈴与はここで、メーカーに代わって、サプリメントの瓶詰め作業を行っている。

「物流、間接業務は私たちが負担することで、本業の時間を作って売り上げを上げていただきたい」(営業開発担当・山岡和明)

〇鈴与の変幻自在2「創業200年で農業に初参入」

2010年、鈴与はこれまで一度も手掛けたことのなかった農業に進出した。静岡・菊川市の「ベルファーム」で作っているのはトマト。グループ傘下の食品会社が作るミネストローネの材料にも使われている。

「次の世代は相当大変な時代が来るかもしれない。農業をもっと見直して、我々が生産性を上げて、日本の農業を組み立て直す必要があるんじゃないかと思うんです」(鈴木)

ハウスで作業していたのはロボットだ。
紫外線を当ててカビなどの病原菌を抑制している。収穫後のトマトの選別でもAIを活用し、サイズや傷の有無、形の良さなどを瞬時に識別し、自動で仕分けている。

ハウスの隣­­では売り物にならないトマトや、グループの食品会社から出る廃棄物を利用してメタンガスを発生させるプラントを設置。このガスを使って発電機を動かし、毎日、約200世帯分の電気を作り出している。

「チャレンジすること、自己改革することがうちのグループのエネルギーの原点。それがなくなったら、グループのエンジンみたいなものがなくなってしまうんじゃないかと思う」(鈴木)

航空業界に新風~地方と地方を直接結ぶ

富士山静岡空港の開港に向けて2008年にスタートした「FDA」。航空会社の設立は、学生時代グライダー部に所属した鈴木の夢だった。

静岡・牧之原市にある「FDA」の訓練施設「フジトレーニングアカデミー」に、立ち上げ当時、周囲が反対する中で鈴木が導入した訓練用のフライトシミュレーターがある。操縦に合わせて機体の揺れや傾きも忠実に再現する。その価格は「FDA」で使う航空機1機分の約40億円だった。
新興の航空会社では、外部の施設にパイロットを派遣して訓練するのが一般的だが、鈴木は「実際の飛行機で実現できない空の状況を訓練する。エンジンが止まったり、霧の中に入ったり。だから安全のためには(フライトシミュレーターが)どうしても欠かせない」と言う。

自社でパイロットの育成ができることで、最近の深刻なパイロット不足にも対応できているという。

「静岡にシミュレーターがあるのは非常にありがたい」(FDAパイロット・石内隆史)
「地方と地方をつなぐ」をコンセプトに、羽田とではなく、地方空港同士を直接結ぶ路線を拡大している「FDA」。現在16空港・26路線を運航している。このコンセプトは、鈴木がこれからの地方の可能性を信じて打ち立てたものだ。

「大きな町を経由しないでも交流が進んでいくことは大事だと思うんです」(鈴木)

東京と名古屋に挟まれる静岡。「FDA」が飛ぶ前は、どこに行くにもいったん大都市に出るしかなかったが、空港近くの農家、「無農薬茶の杉本園」の杉本鋭悟さんは「空港ができて初めて九州に行きました。確実に行動範囲は広がりました。最近は福岡によく行きます。草刈りメーカーがカフェをやっていて、そこでうちのお茶を使ってもらっています」と言う。

「FDA」で地方同士が交流し、新たなビジネスを生み出していたのだ。

「飛行機でいろいろなところと交流して、自分たちの文化を作る。若い人たちにも誇りを持って文化を語れるような世界は、すごく大事だと思います」(鈴木)

歴史を背負う八代目の覚悟~赤字転落で決断

鈴木が清水に生まれたのは1941年。生まれた時から鈴与の跡継ぎを決定づけられていたが、それに抵抗を感じていたという。

「いろいろな人が自宅へ来るんです。お酒を飲んでよく説教されました。『お前は八代目なんだから』と。小学生の子どもに酔っ払って説教されてもかなわないですが」(鈴木)
東京大学を卒業後、明治時代から鈴与と取引のある「日本郵船」に出向。跡継ぎの重圧から逃れるように海外駐在員を希望し、ヨーロッパでの生活を始めた。

「楽しかったですね。車でヨーロッパ中行けるので、休日にはよくベルギーやドイツを旅行しました」(鈴木)

そんなある日、パリのオフィスにいた鈴木のもとに「大至急、帰国せよ」のテレックスが届いた。送り主は父・7代目与平だった。1974年に帰国すると、鈴与はオイルショックを発端に、創業以来、初めての赤字に陥っていた。

「しっちゃかめっちゃかで、赤字の会社が10以上ありました。月に1億円以上の赤字が出る会社もありました」(鈴木)

このピンチに覚悟を決める。

「最後に父が『もう(後を継ぐか)ここで決めてくれないと、後継者はまた別に探さなきゃならない』と。たぶん息子でなくては、これだけの大変な時期をクリアできないだろうとは思いました。私しかいませんから」

帰国から3年後の1977年、36歳の若さで社長に就任。一大決意で取り組んだのが、主力事業の分社化だった。

当時、稼ぎ頭だったのは、エネルギーなどを扱う販売部門。その売り上げは全体の80%に及んでいた。その裏で、物流部門は伸び悩んでいた。

当時、物流部門にいたOBの立石義郎さんは「一気に日本の経済が落ち込んで、港に船も入らなくなって、輸出も落ちて、仕事にあぶれちゃいました。うちは大企業だというふんぞり返った部分はあったのかなと思います」と、振り返る。

販売部門の売り上げに甘え、分社化に反対する声もあったが、鈴木は10年もの歳月をかけ、1990年に販売部門を「鈴与商事」として分社化する。稼ぎ頭を失った本社の物流部門も、そこから奮起して改革を断行。サプリメントの瓶詰めのような物流の枠を超えたサービスを次々と生み出し、売り上げを伸ばしていった。

物流の2024年問題~「危機はビジネスチャンス」

今大きな問題となっている物流の「2024年問題」。実質、上限のなかったトラックドライバーの時間外労働が、2024年4月から年間960時間に制限された。ドライバーにとっては残業代が減り、離職がこれまで以上に増えると予想されている。

「我々かなり早くからこれはいずれ大きな問題になるんじゃないかと取り組んでまいりました。むしろ我々にとっては、ビジネスチャンスが来たと」(鈴木)

こう言えるのは、長年独自の物流改革に取り組んできたからだ。

滋賀・甲賀市にある「TOTO」の第2工場にやってきた車は鈴与特注のトレーラー。一般的な大型トラックの2倍近くの荷物を積むことができる。
鈴与は以前から積極的にトレーラーを導入してきた。現在では保有するトラックの7割にあたる約3800台がトレーラーだという。

積み込みを終えて千葉県の倉庫に向けて出発。滋賀県から千葉県の倉庫までは約470キロで、7時間の道のりだ。出発から3時間で静岡に入る。すると高速を降りて向かったのは藤枝市にある鈴与の駐車場だ。荷台と運転席部分を切り離すと、運転席部分は帰ってしまった。

翌朝4時に別の車がやってきて荷台とドッキング。ドライバーも別の人だ。「違う乗務員が滋賀から積んできた荷物を、僕が今日千葉に配達します」と言う。

これは、ドライバーの働く時間を減らすため、トレーラーの頭だけを入れ替えて荷物を運ぶ「中継輸送」という方法だ。

「休む時間が増えたので、とてもいい取り組みだと思います」(ドライバー・松島義明)

「中継輸送」は陸上だけではない。「RORO船」と呼ばれるトレーラー専用のフェリーがある。トレーラーが次々と入っていくと、頭の部分だけが出てきた。船内に残るのは荷台部分だけ。到着した港で、別のドライバーが荷台を引き継ぐ段取りだ。
だが、鈴与のドライバーは残業が減って、給料も減ったのでは?

「(4月から)僕たちの給料は上がっています。この2024年問題を見越しての昇給だと思います。だからこの会社は若い子が多いですよ」(ドライバー・佐々木勇登)

こうした取り組みもあって、鈴与のドライバーの離職率は全国平均の半分以下に。さらに、一連の改革が荷主から評価され、仕事の依頼が増えているという。

※価格は放送時の金額です。

~村上龍の編集後記~

フジドリームエアラインズという名称、富士山静岡空港に間に合わせるために物流大手の鈴与が立ち上がったという風に描かれる。実際は少し違う。鈴木与平氏の夢のために、できたエアラインなのだ。与平氏は、学生時代はグライダーに乗り、大空への夢を育んできた。だから、日本で唯一のリージョナル航空会社を作った。航空会社は「物流の華」だ。だがリアルな部分は、創業時からフライトシミュレーターを持つことに象徴される。初代、船で江戸などに米を運んだ廻船問屋としての伝統は、しっかりと守られている。

鈴木与平(すずき・よへい)
1941年、静岡県生まれ。東京大学卒業後、日本郵船を経て、鈴与株式会社入社。1977年、社長就任。2001年、八代目鈴木与平を襲名。

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画像提供:テレビ東京