47都道府県、「この県といえばこれ!」というとっておきの歴史の小噺をご紹介する連載です。作者は、証券会社出身の作家・板谷敏彦さん。大の旅行好きで、世界中の主な証券取引所、また日本のほとんどすべての地銀を訪問したこともあるそうです。
最終回は東京都。日本初の鉄道建設にはいくつもの困難がありました。それを乗り越えるために大隈重信たちが出した解決策とは?
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家康が埋め立てをしてできた駿河台
東京都は関東平野にあり、東京湾に面している。また伊豆・小笠原の島嶼(とうしょ)部も東京都に属する。面積は2,194㎢と香川県、大阪府に次いで3番目に小さい。
東京の地形は、島嶼部を除くと、西に東京都最高峰の雲取山(標高2,017m)を起点とする関東山地、中部に埼玉県へまたがる狭山丘陵と、神奈川県へ広がる多摩丘陵がある。続く台地は武蔵野台地で、23区の山手地区はこの東端にあたり、その先は東京湾に面した低地となる。
鎌倉時代の頃、低地にあたる現在の中央区・江東区の大半は海で、日比谷から駿河台下辺りにかけては日比谷入り江と呼ばれていた。天正8(1590)年に徳川家康が江戸城へ移ると、神田山を切り崩して日比谷入り江を埋め立てた。
切り崩された跡地には、駿河国から来た家臣団が住んだことから駿河台と呼ばれるようになった。また、東京湾に流れ込んでいた利根川を千葉県銚子方面へと付け替え(利根川東遷)、東京湾に流れ込む水量を減らすことで、下流域を埋め立てやすくした。
ちなみに、浅草の浅草寺の起源は推古36(628)年に隅田川沿岸の漁師が海から観音像をすくい上げて祀ったとされる。つまり浅草も昔は海に近かったのである。
かように東京都の低地部分は歴史的には新しい土地で、近代以降も埋め立てが繰り返され、拡がっているのだ。
※この地図はスーパー地形アプリを使用して作成しています。
ペリーやプチャーチンが見せた「蒸気で動く鉄道模型」
今回は、東京の地形と密接な関係にある日本の鉄道の始まりについて書いていく。
日本が鎖国していた嘉永6(1853)年7月8日、ペリーが浦賀に来航した。泰平の日本の眠りを覚ますことになった黒船来航である。この日以降、日本は江戸時代の末期を意味する「幕末」と呼ばれる時代に入った。
ペリーは日本の開国を迫るアメリカ大統領の親書を幕府に渡すと、「君たちに考える猶予を与えよう。来年再び来るからそれまでに返事が欲しい」と帰っていった。翌年、幕府は現在の横浜の関内に応接所を設置し、ペリーを迎えた。現在、この地には横浜開港資料館がある(第8話神奈川県)。
この時ペリーは蒸気で動く鉄道の模型を実演して見せた。これが日本の鉄道の始まりにつながる。実は同じ頃、ロシアのプチャーチンも蒸気機関車の模型を持って長崎を訪問している。
この時、鉄道模型を見た佐賀藩士が刺激を受けて、佐賀藩の技術研究機関「精煉方」で模倣し、2年後には模型を完成させている。
かくして鉄道の知識は一部の日本人の間で拡がりを見せた。明治維新の頃に京都から東京への遷都が計画されると、政府関係者の中で東京―京都間の鉄道建設が思い描かれていったのである。
そのうちの一人が大隈重信だった。佐賀藩出身の大隈重信は「精煉方」で鉄道模型を目にしていた。
さらに、渡航禁止の時代に長州藩から英国へ密留学した、伊藤博文を含む5人組長州ファイブ(第3話山口県)や薩摩藩から留学した19名の薩摩スチューデント(第6話鹿児島県)たちも留学先で鉄道に触れ、その必要性を感じていた。
そして、明治2(1869)年11月、明治新政府の大蔵卿だった大隈重信とそれを補佐する大蔵少輔・伊藤博文は、英国公使パークスとともに鉄道建設について三条実美、岩倉具視に説明をした。そして、新橋ー横浜間に、日本初の鉄道建設をすることが廟議(びょうぎ)決定された。
交通機関の整備なくして、近代産業は育成できない。国力を養えなければ、結局は軍事力も増強できず、やがて英米を始めとする列強国に日本は蹂躙されてしまう、と鉄道を知る者たちは考えていた。
だが、政府内でも海外の状況を知らない西郷隆盛や江藤新平たちは、鉄道の整備なんかよりも、軍の近代化を通じて軍備の増強が必要だと訴えた。当時、隣国の中国ではアヘン戦争で英国に敗れて半植民地化が進行していたため、それも無理からぬことだった。
現代のパソコンやインターネットの出始めと同じように、当時の鉄道は知る者にとっては大変重要なモノだが、知らない者には重要さが理解できないモノだったのだ。その差は非常に大きかった。
海の上に築堤することで、日本で初めての鉄道を開通
いざ鉄道が建設されることになったものの、当時の土木工事の水準では簡単にトンネルを掘ることもできず、また蒸気機関車の馬力も低くて急勾配を上れなかった。そうなると線路を建設するために、平坦な土地が選ばれる。
しかし、新橋以南の平地は既に人口密集地であったために、空いた土地がなかった。また、新橋を出てすぐの海岸は三田薩摩屋敷で、西郷隆盛が鉄道建設に積極的ではない以上、立ち退きを要求するわけにもいかなかった。さらに、高輪にあった兵部(ひょうぶ)省は、軍備増強を主張して線路敷設工事の測量を拒否してきた。
しかたがないので当時の海岸線沿いに運河のような間を空け、沖を埋め立てて、築堤(ちくてい/土を盛り上げること)し、線路を建設することにしたのだ。こうして、新橋ー横浜間に日本で最初の鉄道が開通したのである。
2014年6月、JR東日本は田町駅と品川駅の間に高輪ゲートウェイ駅を新たに設置する計画を発表し、2017年から工事を開始した。2019年、地中に埋もれていた昔の築堤が掘り起こされた。この歴史遺産を「高輪築堤」と呼ぶ。かくして鉄道開業時の歴史が再び見直されるようになっている。
当時の高輪築堤を走っていた汽車は、おそらく陸から見ると岸から少し離れた小高い山の上を走っているように。そして汽車の中からは、まるで海の上を走っているように見えたことだろう。
東京都都心部は、明治期以降も埋め立てが進み、現在の線路はかなり内陸部を走っている。それでも、昔の海岸線がどの辺りだったのか、京浜東北線は教えてくれるのだ。
※この地図はスーパー地形アプリを使用して作成しています。
東京のおすすめ観光スポット
東京の飲食店やバーの名店は数が多くて、紹介したらキリがない。そこで、このシリーズ最終回の東京では「高輪築堤」にまつわる街歩きのコースを紹介したい。
出発点は都営南北線線の白金台駅。徒歩数分のところに「港区立郷土歴史館」がある。建物は昭和13年竣工の旧公衆衛生院である。
外観は荘厳な建物ながら、中は耐震補強やバリアフリー化され、とても綺麗に保たれている。ここには港区の民俗学的な歴史展示があり、高輪築堤の史料なども豊富である。あまり知名度は高くないが、中身は非常に充実した博物館である。
ここから「物流博物館」までの道すがら、明治学院大学や高輪消防署二本榎出張所などの歴史的建造物をたどりながら歩くことができる。
「物流博物館」は「 NIPPON EXPRESSホールディングス 」(旧日本通運)の企業博物館である。しかし日本の物流企業の老舗である同社は、企業色を抑えながら物流全般について展示。東京湾の物流の歴史もわかりやすく展示されている。
港区立郷土博物館を見学した後に訪ねると、高輪築堤に関してより理解も深まるだろう。
物流博物館から品川駅を越えて、海側に向かっていくと、「 ヤマトグループ 」歴史館「クロネコヤマトミュージアム」がある。ここも宅急便の歴史に留まらず、東京を中心とした物流の歴史が理解できるように工夫されている。企業ミュージアムとして秀逸である。
品川駅に戻った後は、鉄道で新橋駅へ移動し、「 JR東日本 」が展示する「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」を訪ねると良い。これで新橋ー品川間の鉄道の歴史に加えて、東京の物流の歴史が把握できること請け合いである。
板谷敏彦